愛の唄 8

ぼんやりと開いた目に映ったのはすまなそうに眉を下げ伺う様に覗き込んでくる識の顔だった。
状況が良く飲み込めなくて身動ぎしようとして肇は異常に体が重いのを感じる。
「動かなくていいから、ごめん、やりすぎた・・・・・・」
見るからに落ち込んでる識の小さな声に肇はやっと何をしたのか理解して顔を真っ赤に染める。
「・・・・・ごめん、僕・・・・・・どうして・・・・・」
戸惑いながらも呟く肇の頭を優しく撫でると識は照れているのか少しだけはにかんだ笑みを向けてくる。
「具合は?・・・・・イッタ後、気絶したから、すごく心配した。・・・・・・平気?」
言葉もなくただ頷く肇に識は笑みを深くすると顔を近づけてくる。
「・・・・・・識?」
「眼鏡なしでも、俺の顔、見える?」
「多少は・・・・・・でも、離れるとぼやけるかな・・・・・」
これだと?聞きながらそっと唇へとキスを送る識に肇は瞳をゆっくりと閉じる。
暖かな温もりが唇へと優しく何度も触れてくる。
消えていく温もりに瞳を開くと識は唇が触れそうな距離で顔を見つめてくる。
「・・・・・ごはんとお風呂、どっちが良い?」
そっと問いかける声と同時に肇のお腹はきゅるきゅると鳴きだし識は吹き出す様に笑いながらも背に手を回すとそっと肇を起こしてくれる。
「待ってて、今、持ってくるから・・・・・」
あまりにムードの読めないお腹に手を当て恥ずかしそうに俯く肇の頭をもう一度撫でると識は立ち上がりキッチンへと小走りに向かった。

「美味しそう!!」
嬉しそうに笑みを浮かべ呟く肇の前に小さなテーブルを広げてくれると識は持って来たご飯をそこに並べる。
思えば朝ご飯を食べる事なく致してしまったから、お腹が空いていて当然、持ってきてくれたとろとろ卵のオムレツからも、卵スープからも美味しそうな湯気が立ちこくり、と肇は喉を鳴らした。
「どうぞ、お食べ下さい。」
「頂きます。・・・・・識は?」
「俺はとっくに食べたよ。だから・・・・・夕飯は一緒に食べよう。」
スプーンを手に取り、不思議そうに伺う肇に識は食事を勧めながら答えてくる。
窓の外へとちらりと目を向けた肇はお日様が真上にあるのを見てとり、お昼近い時間だと一人確認する。
どれだけ寝てたのか気づきながらも美味しそうな食事の誘惑には勝てなくて肇はぱくぱくと食事をしだした。


*****


「ところで、眼鏡なしだと、全く見えないのか?」
「・・・・・うん、なんで?」
眼鏡を肇の顔から取り縁の厚い眼鏡をくるくると手の中で回しながら、問いかけてくる識に肇はただこくり、と頷く。
「眼鏡、変えないの?・・・・・印象暗くなるじゃん。」
「使えるし、これでいいよ。それに、ずっとこれだったし。」
戸惑う様な笑みを向け呟く肇に識はそっかと単純に頷き眼鏡を肇の手へと乗せる。
受け取った眼鏡を眺めながら肇は識へと体を摺り寄せる。
「・・・・・どうした?」
「眼鏡、初めてかけた時、世界が変わったんだ。・・・・・何か、広くなった気がした。」
「広くなる?」
「うん。 僕、小学校の高学年でいきなり視力落ちて、中学入学と同時に眼鏡作ったんだ。・・・・・薄ぼんやりとした世界が眼鏡をかけた瞬間変わった気がした。それから、手放せない。」
「・・・・・コンタクトとかに変える気は?」
「無いよ。・・・・・人と目を合わせるの苦手だし、レンズ越しだから大丈夫だって気がするから・・・・・」
呟く肇の頭を撫でると識はそっと抱きしめる。
腕の中でびくり、と体を震わせはしたけれど、そのまま大人しく腕の中にいる肇を識は更にきつく抱きしめた。

暗闇に啜り泣きが聞こえる。
ぼんやりと開いた目の前は霞んでぼんやりとしているから肇は必死に近くにあるはずの眼鏡を探す為に手で周りを探る。なのに、どんなに手で探っても周りには眼鏡は見当たらない。
どんどん大きくなる啜り泣きに、焦って周りを探るけれど、どうしても眼鏡は見つからない。
肇はその場へと力なく座りこみ、啜り泣きが近づいて来るのを感じる。

小さな男の子はとても痩せっぽっちで小さいのにその声だけは少年特有というのかとても高い。
そのぼんやりと映る人影に目を細めた肇はその少年が見覚えあるのに気づく。
見覚えある、というよりも幼い頃の自分だった。
どうして泣いているのか理由を思い出せない肇の目の前で少年は尚も啜り泣く事を止めない。
人前ではほとんど泣いた覚えは無かった。
必死に記憶を遡り、この頃の年代で一番ショックだったことを必死に思い出そうとする肇の耳に幼い声が聞こえてきた。
【はじめ君に好かれてもうれしくないよ】
【そうだよね、だって、はじめくん、あたしたちよりかわいいってトモ君もあっ君も言ってるし・・・・・】
【おんなのこよりかわいいなんて、ひどいよね。】
【ほんとう、だから、あたし、はじめ君、キライ!】
【あたしもーーー!!】
【はじめ君、きらーーい!!】
次々と聞こえてくる声に啜り泣きだった声は大泣きへと変わる。
座りこんだまま肇は眼鏡をどんなに言われても縁の分厚い眼鏡にした当事の自分を思い出した。
泣きたくなるほど単純だけど、当事の肇にとってはショックだった出来事。
もう、ある程度男らしさや女らしさを少しづつ見出し始めていたあの頃、言われた言葉を忘れてもあの衝撃だけはずっと残っていた。


*****


「・・・・・じめ、肇! 肇ってば、起きろって!!」
揺り動かされ、何度も呼ばれる名前に肇はぼんやりと瞳を開いた。
覗き込んでくる顔に笑みを向けた肇に彼は溜息を吐くと笑みを返してくれる。
「平気?・・・・・凄い、汗だよ・・・・・シャワー浴びる?」
起こすのを手伝いながらも汗で張り付いた髪を額から取りだす識に肇は大きく息を吐くと平気、と一言呟いた。
「悪夢、最近見てないって、言ってなかった?」
「・・・・・うん。本当に久々・・・・・夢の内容、今度は覚えてるよ。」
微かな声で呟く肇に識は髪を取る手を止めて肇の顔を見る。
薄暗い部屋なのに、眼鏡がないのに、流石に至近距離だからはっきり見える顔に笑みを向けた肇はぽつぽつと夢の内容を語りだした。

「それは、また・・・・・しょうがない、と言うべきかな?」
「・・・・・わかんないや。でも、識が眼鏡の話をしなければずっと忘れてた。・・・・・僕、可愛い子供だったらしくて、眼鏡作る時結構親はこの眼鏡気に入らなくて反対してたんだけど、ね。・・・・・思い出したら、悪夢でも何でもなかった気がする。」
「肇の幼少期の大きなトラウマなんじゃないのか? どう?これを機にイメチェンしてみる?」
会社の連中驚くぞ〜と付け足す識に肇は笑みを浮かべただけだった。
愛着ある眼鏡をまだまだ手放す気にはなれなくて、戸惑う様なえみだった。
そんな肇に識はベッドから立ち上がるとタオルを持ってきて渡す。
「・・・・・識?」
「寝汗、結構凄いだろ、シャワー浴びてさっぱりしてからまた寝よう。な。」
こくり、と頷きタオルを持ちバスルームへと向かう後姿を見送り、識はベッドの横に置かれている眼鏡へと視線を向けた。
縁の分厚い、眼鏡へとそっと手を伸ばしかけ識は笑みを浮かべた。
勧めては見たけれど、イメチェンした後の反応によっては識だけの独占状態の今の現状維持が難しくなりそうだとも思いながら。


トラウマって結構治すのには苦労するらしいです。
なんて事ない悪夢で申し訳ない、でも、目の悪い人が眼鏡やコンタクトをつけた時の感動だけは真実です。

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