「これとこれ、それからこれもやり直し、今日中によろしく!」
嫌味な笑みを浮かべているのに目だけはぎらぎらと睨み付けてくる目の前の男、木崎敦に肇は内心溜息を零すと差し出された書類を無言で受け取り形ばかりの礼をすると席へと戻る。 ほんの少しの同僚や部署の仲間達とも今までは一線引いていた肇は最近挨拶から初めて少しづつ話せる様にはなってきていた。 でも、人には得手、不得手がある様に付き合いづらい人がいるのだとも知った。 入社当事から良く思われてないだろうと思ってはいたけれど、木崎の肇に対する態度は周りと話せば話すほど悪くなる気がしてならない。 パソコンを起動させ渡された書類へと目を走らせていた肇は上からかかる影に顔を上げる。
「平気?・・・・・ミスしたわけじゃないよな?」
前の席へとそっと座りこみ木崎の姿を横目で確認しながらも問いかける識に肇は苦笑を浮かべた。
「・・・良くある事、だから・・・・・」
答える声にいつも以上に覇気がない肇の姿に識は手にしている資料へと目を向ける。
「・・・・・識?」
「これ、お前の仕事じゃないだろ?・・・・・また押し付けられた?」
「・・・・・でも、これは、ほら・・・僕が関わってるし・・・・・」
だから、仕方無いと呟く肇に識は溜息を吐くと書類を奪い取り真っ直ぐに木崎の方へと歩いていく。 一瞬呆然として空いた手のひらに慌てて立ち上がり追いかける肇の前で識は木崎の机に書類を叩きつけた。
バン、と響く音に何事かと周りの人達の視線が音の出た方へと向かう。
「・・・・・何のつもりだ、美咲。」
「これは、あんたの仕事だろ?・・・・・肇に押し付けるのは間違ってないか?」
木崎はいきなりの識の態度にぎろり、と上を睨みつける。 そんな木崎の視線に負ける事なく睨みつけ低い声で告げる識に木崎はぐっと一瞬言葉に詰まる。
「・・・・っ。これは、高見の手で作られた資料だっ!・・・直しも当然高見の役目だろうが、高見ならまだしも美咲に文句を言われる筋合いはないな。」
開き直ったのか、薄っすらと笑みまで浮かべ答える木崎に識はぎりっと奥歯を噛み締めると机を今度は両方の手のひらで叩く。 バンッと先ほどよりも大きな音に周囲の人は固唾を飲んで見守る。 肇もどうしたらいいのか分からずにただおろおろと立ち尽くす事しかできなかった。
「ふざけんな!・・・・・肇が文句言えないのわかってて押し付けといて開き直りですか? いい加減に自分の仕事は自分でしてくれませんか? それとも新人よりも仕事できないから出来る奴に押し付けるんですか?」
言葉に詰まりただ睨みつけるだけの視線に真っ直ぐ目を合わせたまま、誰もが思っても言えない言葉を識はすらすらと吐き出す。 「もう、良い!・・・・・これは俺がやればいいんだろう。」
「・・・・・だから、最初からあんたの仕事・・・・・・・・ッ!!」
一言にも倍の反論が返ってきそうで、木崎は書類を手に立ち上がり投げつける様な言葉を吐き出しそそくさと部屋を出て行く。 引き止め尚も言い募ろうとする識を肇はやっと彼の腕を引き押し止める。
「・・・・・識! ごめん、ありがとう。もう、良いよ・・・・・」
これ以上は識の立場が悪くなりそうでひっそり、と引きとめた腕を掴み呟く肇に識は眉を顰める。
「もう少し、言いたい事、あったんだけど、な・・・・・」
「識。」
ちっ、と舌打ちする識を苦笑いで見上げ肇は再度同じ言葉を呟いた。
「もう、十分だよ。これで、当分僕に仕事はふらないだろうし。」
「そうか? でもまた押し付けられたら言えよ!・・・・・今度こそ完璧に叩きのめすから。」
親指を立て胸を張る識に肇は苦笑を浮かべたままただ頷いた。
余談だけど木崎の評判は肇が思っていた以上にかなり悪かったらしく、識が彼を言い負かした事はその後別の部署にもかなり話題になり、女子社員の憧れの男性としての識の好感度は更に上がった。
*****
人付き合いは順調、仕事だってそこそこ、嫌味な先輩に無理難題言われる事もなくなって日々平和、なのに胸の奥で燻っている得体の知れない感情が日増しに強くなっていく気がして肇は深い溜息を吐いた。
「溜息を吐くとその分、幸せが逃げるって良く言わないか?」
ことり、とテーブルの上に料理を置きながら問いかけてくる声に肇は顔を上げるとただ苦笑を浮かべる。 識の家に泊まった翌日から、暇があればこうして夕飯を共にしている。 体調を崩した肇の部屋に来た識はあまりの冷蔵庫の中身の薄さにそれから頻繁に夕食に誘う様になった。 元々食にあまり興味の無い肇と違い凝り性の識は料理も完璧で、いつも出来合いの物で済ませていた肇の舌はここ数週間でかなり肥えた気がする。 今日も目の前に並ぶ美味しそうな料理にこくり、と唾を飲み込み肇は箸を手に取るとばくばくと食べだした。 そんな肇に笑みを浮かべた識も箸を手にすると食事を始めた。
「ごちそうさまでした、はい、これ。」
「おお。ありがとう。」
食べてるだけでは何だから後片付けを手伝う肇に識は笑みを返し洗い物を始めた。 かちゃかちゃと食器の触れ合う音に混ざり、識の返した笑みにとくん、と少しだけいつもよりも一段大きく跳ねる心音に気づかれない様にそそくさと肇は台拭き片手にテーブルへと向かう。 ぺたり、とその場に座りこみ高鳴る胸を抑えながらそろり、と横目で識を伺い肇は内心溜息を零した。 いつもと変わらない後姿、食器を洗いながら鼻歌でも歌っているのか水音に混じり微かに音が聞こえる。 些細な笑顔に、言葉に最近胸が高鳴る気がして肇は胸を抑えたまままた微かな溜息を漏らした。 理由をどこかで考えたくない気持ちと裏腹な知りたい気持ちがせめぎ合い肇はテーブルを拭きながらぼんやり、とする。
「肇〜食後にどう?」
台所からワインのビンをを片手に声をかける識に台拭きを片手に肇は顔だけ向けると笑みを浮かべる。
「うん、ありがとう。」
「いや。」
コップを二つとワイン、そしていつのまに作ったのか簡単なつまみをも持ってくる識に肇は台拭きをテーブルの隅に置くそのまま座りこむ。 肇の前に座ると識は慣れた手つきでコルクをあけると手際良くコップへと注ぎ分ける。
「これ、解禁のワイン?」
「そう、ついつい買ったのはいいけど、飲む相手がいなくてね。」
見覚えあるラベルを見ながら問いかける肇に笑みを返し識は答える。 ピンキリの値段は各種、ワインの事は分からないけれど、いつも11月半ばに解禁されるワインの事ならあまりお酒に詳しくない肇だって知っている。
「今年の味はどう?」
「・・・・・分かんないよ、去年飲んでないし。」
「そっか〜? でも、まあまあかな?」
口に含み味を確かめるように飲み込んだ識は笑みを浮かべると答える。 口の中に広がったワインに肇はお酒の味だとしか思えない自分の乏しい感性に内心苦笑を浮かべた。
美味しい食事と楽しい時間に酔った頭でぼんやり、と時計が目に入った肇は慌てて立ち上がる。
「肇?」
「僕、そろそろ帰るね。今日もありがとう。」
ふらつく頭を抑えながら身支度を整えだした肇に怪訝な顔で識は口を開いた。
「・・・・・泊まれば?明日は休みだし。」
「いいよ。まだ電車あるし。」
識の申し出にふるふると頭を振ると肇は鞄を手に玄関へと向かう。 当然の様に後ろから着いてくる識の足音が耳にやけに響いてくる。
「じゃあ、また月曜に。」
「うん?・・・・・やっぱり、泊まれば? ほら、土、日の三食俺の手料理食べれるから栄養不足にならないぞ。それに結構飲ませたし。」
「・・・・・平気だよ。まだ十分歩けるから、じゃあね。」
「・・・・・そっか?・・・気をつけろよ。」
ドアの前に立ち手を振る識に笑みを浮かべ手を振り返してから前を向くと肇は外灯だけが照らす夜道を足早に駅へと向かった。 識の部屋が見えなくなると足早だった歩調を緩め歩きながらそっと胸元を抑えると肇は酒で火照ったままの顔で夜空を見上げると深く大きな溜息を零した。 気づきたくなかった燻る気持ちに名前をつけるのをまだ躊躇っていた。
*****
いつも変わらず混みあっている社内食堂に一人でいるのはやっぱり落ち着かなくて気を紛らわすかの様に目の前の食事を箸でつつきながら肇は識がくれた「夢占い」の本を一人読む。 どの例文を読んでもピンとくる事がないまま読み進めながらも文章はまるで頭に入っていかなかった。 諦めて本を閉じると目の前の食事を口に運ぶ事もしないでただつつきながら肇は大きな溜息を零した。 「だから、溜息吐くたびに幸せが逃げるって言ってるだろ?・・・・・何か、悩み事?」
前の椅子を引く音と同時に聞こえる声に肇は顔を上げる。 苦笑を顔に浮かべたままの識に肇は困った様にただ笑みを返した。 「溜息多くないか?・・・・・また、あいつに何か言われてるとか?」
「・・・・・それは無いよ、識のおかげで。ちょっと、これ・・・読めば読むほど分からなくなって、ね。」
本を片手に答える肇に識は本へを顔を向け納得したのか、ああ、と頷く。
「どれも当てはまらない?」
「元々、覚えてないからね。」
「なるほどね。・・・最近は?」
「夢も見てないよ、ぐっすり、寝てる。」
「そっか。なら、また見た時にでも考えれば、ほら食べないと冷めるぞ!」
あまり食事に手をつけてないのを見て識は話を切ると食事を勧める。 頷き箸を持ち直しゆっくりと食べだした肇に識は笑みを浮かべると自分も食事を始めた。
そっと識へと視線を向け肇は気づかれない様にすぐに食事へと目を向けながらあまり居心地の良くない空間が識がいる、それだけで落ち着くのを感じる。 それはできるなら認めたくない気持ち、友達だから親切にしてくれる識への燻る気持ち。 あの夜、気づいてしまったその気持ちをできればまだ気づかれたくなかった。 散々一人で考えて、悩んでそれでも結論は一つだけしか出てこなくて、だけどまだ名前にはしたくなかった。 認めれば気づかれそうで怖かった。 友達だから、許された場所、それを喪いそうで気づけば溜息ばかり零すその理由を目の前に座る人には気づかれたくなかった。何よりも怖いのは気づかれ拒絶される、それだけ。 また溜息を零しそうなのを必死に押さえ込み肇は口の中に食事を詰め込む。 そのおかげで咽る肇に識は驚いた様にお茶を渡してくれる。
「平気か?」
「・・・・・ありがとう。」
何気ない会話、何も知らずに向けてくれる笑み、肇はそれを喪いたくはなかった。
名前も出て来ないあれに悩んでます肇君苦悩編です。 これから一人ぐるぐる悩ませる予定であります。
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