一度口に出した言葉を取り消す事が出来ない様に人と人の関わりも一度亀裂が生じれば埋めるのは容易では無いのだと肇は知っていた。 良かれと思ったその選択を後悔する日が来るとはもちろん思ってもいなかった。 識が肇に近づかなくなってから周りの対応すらも変化していた事に肇は暫く気づけなかった。
「最近、更に浮いてるよね、あの人。」
「ああ、あいつでしょ。とうとう、美咲君にも見捨てられたみたいだよね。」
「仕事がいくら出来てもアレでしょ?」
「本当に・・・・・きもいだけだもんね。仕事出来るのかも怪しいよね。」
「言えてるーー!!」
足を止めた肇は聞こえてきた声に思わず身を奮わせる。 最近益々居心地の悪さを感じてはいたけれど、噂話をさせるなら彼女達のソレはかなりの真実が含まれていて、気づかれない様にそっと向きを変えると肇は足早にその場を去る。
「これもついでにやっといてくれよ!」
ばさり、と投げられた書類に顔を上げた肇は相手の顔を見てから視線を逸らした。 入社当事から何かと難癖をつけ肇に仕事を押し付ける二個上の先輩木崎敦(きざきつとむ)の姿を認めた肇は何も言わずに書類へと手を伸ばした。 反論すれば倍になって帰ってくる罵詈雑言に早々に諦めた肇は体よく木崎に使われる様になった。 面倒な書類を肇に押し付けた木崎はそのまま去りかけると足を止めると肇へと顔を近づけてくる。
「お前、とうとう美咲に見捨てられたんだって有名だぜ。いつかはそうなると思ってたけど案外早かったな。」
口元に嫌な笑みを浮かべた木崎の言葉に視線を逸らす肇にくくっ、と嫌味な笑いを零した木崎はそのまま今度こそ立ち去る。 その背を少しだけ眺めた肇は唇を噛み締めると眼鏡を押し上げ木崎の置いていった書類を持つ手に少しだけ力を込める。 ぐしゃっと歪む紙の音に内心溜息を漏らした肇は書類についた皺を直すとパソコンへと顔を向けた。
*****
すっかり誰もいなくなった薄暗い部屋で煌々と周りだけを照らすパソコンの前に一人座ったまま肇は一心不乱にキーボードを打っている。 かたかたと鳴るキーボードの音とパソコンの起動音だけが支配する部屋の中溜息を零した肇はずっと動かしていた手を止める。 木崎の押し付けた書類がかなり面倒で自分の仕事も終わらない肇はずっと見つめていたパソコンから顔を逸らすと一人大きく伸びをしたその時にかたり、と鳴る物音に腕を上げたまま音の鳴った方へと目を向ける。
「・・・・・誰、かいるんですか?」
ぼそっと呟いたはずなのにやけに響く自分の声に内心驚きながらも物音のした薄暗い闇へと視線を向けた肇の前に人影が現れる。 こつこつとこちらへ向かってくる足音にどくん、と鼓動が跳ねる。 目の前に立つ人を目を凝らして見上げた肇は一際跳ねる鼓動に合わせたかの様にびくりと肩を揺らした。
「・・・・・こんな遅くに、何の用ですか?」
「それはそのまま返す。やれないなら断れよ、自分の仕事後回しにしてまでやる事無いだろ?」
内心躊躇いながらも問いかける肇に苛々と言葉を返したのはとっくに帰ったはずの美咲識で彼は肇の前にすっと紙袋を差し出した。
「・・・・・あの・・・・・」
「受け取れよ!・・・・・どうせ、夕飯もまだだろ?」
手に取ると暖かいその袋からは微かに食べ物の匂いがして、肇はおずおずと中を開く。
「・・・・・ありがとう。」
「いーえ。・・・・・で、あとどの位残ってんの?」
「はい?」
「仕事だよ!差し入れだけの為にきたんじゃねーよ!」
眉を顰め吐き出した言葉に呆然と瞬きを繰り返す肇の前に身を乗り出した識は近くに置いてある書類にざっと目を通しパソコンの画面へと目を向けた。
「どけよ!・・・・・それ、冷めないうちに食べちゃってよ!」
肇を椅子ごと脇に避けると識は椅子を隣りの机から勝手に持ち出すと肇の座っていたパソコンの前へと座りキーボードをかたかたと打ち出した。 紙袋片手に暫く呆然としていた肇はそのかたかたと鳴る音に我に返ると立ち上がった。
「あの、それ・・・・・僕の仕事、だから・・・・・」
「それ食べろよ!わざわざ買ってきたのに喰わない気かよ!」
キーボードを滑らかに打つ手は休めずに戸惑う声を遮る識に肇はそろそろと椅子へと座り直すと言われた通りに紙袋の中へと手を入れる。
「あの、ありがとう、ございます。」
結局食べている間に仕事を終わらせた識に肇は深く頭を下げるとお礼を告げる。
「礼はいいけど、もっと頼れないかな?・・・・・俺らはそんなに信用できない?」
「・・・・・?」
疑問を顔に浮かべたまま首を傾げる肇に識は重い溜息を吐き出し口を開く。
「だから、困ってるなら手を貸す位できるから、もっと頼れない?」
「・・・・・でも、出来る事だし、それに・・・・・迷惑、だから。」
小さな声で呟く肇に識は再度溜息を零すともう何も言わないまま出口へと歩きだした。 その背を黙って見送る肇の視線に気づき識は足を止める。
「帰らないのかよ。・・・・・早くしろよ。」
見送ろうと立ち尽くしたままの肇へと振り向き告げるその言葉に肇はのろのろと帰り支度を始めだした。 黙って出口へと立ったままそれを見ていた識はそっと息を吐いた。
*****
「・・・・・本当に、ありがとうございました。」
会社から出ると足を止め再度頭を下げてくる肇に識は振り向くと苦笑を浮かべる。
「いいよ、もう。・・・・・ほら、早く帰ろう。ここ、寒いし。」
「あの・・・・・」
最後まで言わせる事なく手を引くと識は歩き出した。
「・・・・・一人で、歩けるから、離してくれませんか?」
「嫌!」
戸惑う様に手を引かれながらも呟く肇にずんずんと歩きながら識は端的に答える。
「・・・・・あの、?」
歩幅が違うのかほとんど前のめりに小走りの肇の疑問に識は歩幅を緩めてから口を開いた。
「お前、逃げそうだから、駅に着くまでは離さないよ。」
断言すると掴んだ手に少しだけ力を入れてくる識に肇は戸惑いを隠せないまま、何も言わずに引かれた手をそのままに歩く。 握られた場所から感じる体温に何とも言えない感覚を味わい、肇はそっと溜息を吐いた。
「もう、離して下さい。」
駅の構内に入ったのに一向に掴んだ手を離そうとしない識に肇はそっと呟いた。
「・・・・・ああ、逃げない?」
顔を近づけて問いかける識にただ頷くとやっと腕を離される。 消えた温もりに会社から駅までのほんの短時間なのに何となく寂しさを感じた肇はぶるり、と頭を振る。
「何?」
「・・・・・何でもないです。・・・・・あの、帰っていいですか?」
なんでお伺いを立てているのか内心疑問を浮かべながらも問いかける肇に識は苦笑を浮かべる。
「話があるから、居てくれっていたらそこにまだ居る?」
「・・・・・あの?」
「居てよ。話があるんだ。・・・・・ちゃんと、おれはお前と話したい。」
真っ直ぐ顔を向けると真剣な顔で話す識の言葉と態度の勢いに押されて肇は訳も分からないままただ頷く。 ほっとした顔で笑みを浮かべる識に肇は眼鏡を押し上げるとただ疑問ばかりが浮かんでるだろう顔をそっと俯かせた。
だから微妙な所でいつもすいません。 中々「恋」まで到達もしていない二人ですが、暖かい目でお待ち下さいませ。
back next top
|