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静かな沈黙が部屋の中を覆い、時計の針の音がやけに大きく響く。ほんの微かな吐息さえいけない事をしている様で穣はそろそろと顔を上げる。ソファーの上、身動ぎしないまま一点だけを呆然と見つめる翼の視線の先が気になり、穣はその先を探り、慌てて立ち上がる。
「・・・・・あの、すいません・・・・・お見苦しいものを・・・・・・」
ハンガーに吊るしていたそれを乱暴に引き取り、腕の中抱え込む穣は引き攣った笑みを翼へと向ける。
「・・・・・本当にこんな夜遅くに何の用、ですか? 連絡下されば、何か用意したんですけど、何もなくて・・・・・」
気に障る事と言えばつい先ほどの居酒屋しか思い当たらないまま穣は腕に抱えたものをきつく握り締める。他人行儀のわざとらしい敬語を吐き出す穣に翼の眉は顰められるけれど口を開こうとはしないから、穣は尚も笑みを口元に貼り付けたまま口を開く。
「俺、また何かしましたか?」
二度と関わりたく無いと言いながらも、わけの分からない深夜の訪問なんて、翼の行動が読めなくて穣はよそいきの言葉しか口に出せない。今更どんな顔で会話したら良いのかも分からずにただ抱えた服を更に強く握り締めた。
「それ、何で捨てないの? 何かの嫌がらせ?」
「・・・・・あの?」
「・・・・・連絡すれば、別れた男が図々しくこの部屋に入り込んでも文句は言わないんだ? それって、ここに誰かを連れ込んでも連絡入れればそれで良いわけ?」
「あの、良く分かんないんですけど、何、言ってるんですか?」
腕に抱えた服をみつめたままやっと口を開いた翼に穣はびくり、と肩を揺らす。躊躇いがちな視線を向け問い掛け様とする穣の言葉を遮り翼は声音をいっそう低くして別の事を問いかけるから、穣は驚きに見開いた目でただ疑問を口にする。何故口調が荒いのかその理由すら分からず戸惑う穣の前、翼はソファーからゆらり、と立ち上がった。

「分かんないのはこっちだよ! 成橋が何考えてるのか俺には全く分からない。俺達別れたんだよね? 成橋が俺をいらないってそう言ったから、なのに、いつまで一人身?」
「・・・・・あの・・・・・」
「いつまでも一人身だから、最後に付き合ってた俺のせいだと言われるんじゃないの? 迷惑かけてると思うなら、あんたのいつもの恋愛方式で早く次の相手を見つけろよ!」
言いながら近づいて来る翼に穣はその勢いに後ずさる。けれど、狭い部屋の中、すぐに壁に当たり、穣はずるずると床へと座りこむ。板張りの床がやけに冷たく感じて、目前にまで迫ってきた翼から視線を床へと向けると穣は抱えた服を抱きしめ小さく身を縮ませる。
「何か、言えよ。」
「・・・・・隼には俺が言う、斉藤のせいじゃないって、誰かと付き合うなんて、今はそんな気は起きないから、だから・・・・・・」
「だから、それじゃ解決しないんだよ。 毎日告白されてる奴らから適当に頷いとけばそれで良いんだよ。」
「・・・・・そんな、事は・・・・・」
「誰といてもあんたは同じだろ? 誰にも深入りしない、だから飽きるのも早い。」
冷たく突き刺さる言葉に穣は思わず唇を噛み締める。屈みこんでくる翼から少しでも離れようと壁伝いに移動しようとしてすぐにそれは阻まれる。
「誰でも良い。 早く次の相手を見繕ってよ。 俺に、俺と彼女に被害が及ばないように・・・・・」
息がかかるほど近くにまで顔を寄せられ耳元で告げるその声に穣は噛み締める唇へと力をこめる。抱えた服を握り締める手が力を入れすぎて白くなっているのがやけに目に入る。声を出せば泣き出しそうなほど胸が苦しくて穣は無言で何度も頷く。それで納得してくれるなら、早く解放されたかった。
「できるだけ早く証拠を広めてよ。 じゃないと、余計な詮索でこっちが迷惑するから。」
告げると同時に立ち上がる翼はそれが用事だったのか、そのまま足音が遠ざかる。ばたり、と重いドアが開き翼が出て行った事に気づき穣は息詰まる雰囲気からやっと解放され息を吐き出した。ぱたぱた、と床に落ちる液体に自分が泣いているのに初めて気づく。否定されるのも嫌われるのも望んだ結果だと知っている。なのに、衝撃は普通に穣を弱らせる。声を押し殺し、抱えた服に顔を埋めると穣は堪えていた涙と嗚咽を零しだした。


*****


泣きすぎて腫れた瞼で何度も瞬きを繰り返してから、穣は座りこんでいた場所からやっと立ち上がる。握り締めていた残骸を目にすると枯れたと思う涙がまた零れ落ちそうで穣はゴミ箱へとソレを押し付ける。
誰かと適当に付き合うなんてもう無理だと穣が一番分かっていた。未だに翼が好きだと告げる心から目を逸らしても、姿を見ない様に逃げても気持ちは消えない。彼女がいて、幸せだと誇れる恋愛をしている翼の邪魔をしたいわけでは無いのに、穣の行動は彼を傷つける事しか出来ない。どうすれば良いのか答えは出なかった。だけど怒りを買うよりは無かった事に出来るなら、穣は腫れた瞼を洗う為に立ち上がりながら拳をぎゅっと握り締めた。
前の恋人と別れてから誰とも付き合う気が無かった成橋穣がついに落ちたと噂が飛び交ったのはその二日後。
「・・・・・色々、迷惑かけます・・・・・」
こっそり、と頭を下げる穣の前に座る男はただ首を振る。
「役に立ててるなら、俺は嬉しいよ。 でも、大丈夫なの?」
「・・・・・平気。むしろ、噂になった方が良いというか、それより、あっちは平気?」
「ああ、大丈夫だよ。 むしろ、推奨してる。基本あの人、息子ラブの人だから、ね。」
「・・・・・・あのバカ・・・・・・」
頭を抱える穣の前、男、野添満(のぞえみつる)はただ笑みを浮かべた。誰かと付き合うのは無理だけれど、決して本気にはならない、そしてこの茶番に付き合ってくれるそんな人を穣は一人だけ知っていた。それが目の前の男。満は母親の年の離れた弟、つまり穣の叔父に当たるのだけれど、彼は穣の父親の大切な人でもある。母親を亡くして数年、何がどうなったのか事情は知らないけれど気づいたら満と父は出来てた。息子である穣に堂々と公表する父も父だけれど、満の事は年の離れた兄の様に慕っていたので聞かされた当初は何とも思わなかった。嫌悪も抱かない自分の性癖に気づいたのは更にその数年後の事だけど。
「で、俺は何をすれば良いのかな?」
「何も。 居てくれるだけで十分。 俺が誰かと付き合い出した噂を流したいだけだから。」
にっこり、笑みを向ける穣に満は眉を顰めるけれど、曖昧な笑みを返した。見た目の割りに頑固な甥っ子が理由を話す気は無いのだと頑なに線を引いたその笑みに満はそっと溜息を漏らした。
相談を持ち掛けられた時は穣の考えを疑った。何かあるのだと分かっていても頷いたのは父親に負けず劣らず満だって甥っ子が可愛いただそれだけだった。赤く泣き腫らしたと分かる目で懇願する穣に否定の言葉は返せなかった。理由を聞かずに引き受けたのは更に傷を深くしたくなかった、ただそれだけ。相当ブラコンが入っているのだと自覚しているけれど、亡くなった姉にそっくりのその容姿を拒む事は満には出来なかった。満とこういう関係になった穣の父親も亡き妻を未だに心の奥底深く愛しているのは分かっている。だからこそ、亡き妻に瓜二つの息子の願いは絶対で否定の言葉を聞いた事は一度も無かった。彼が息子の意思を尊重しなかったのはただ一度だけ。強引に満との関係をばらしたその時だけだった。顔を上げると不思議そうに首を傾げる穣と目が合い満はただ笑みを浮かべた。理由を言ってくれるその日までこの茶番に付き合うのだと決めたのだから。

「新しい彼氏との付き合いはどう?」
「・・・・・順調だよ。この恋は長く続けたいと思ってるし・・・・・・」
隼の言葉に笑みを浮かべ返事を返す穣は内心、友人を騙す事に胸が疼くけれど窺う様にじっと見つめてくる隼に穣は笑みを深くするだけに止めた。噂が広まれば縁は切れる。ほんの少しだけ繋がっていた翼との縁。迷惑にしかならなかった自分との縁が切れる事を喜んでも悲しみはしないだろう。だから、ほんの少しの綻びも油断も見せれない。噂が完全に浸透するその時まで、目の前の友人だって騙さないと、世間はきっと騙されてくれない。だから穣は疼く胸元を気づかれない様にそっと握り締めた。
完全に噂が浸透するのは穣が思っていたよりも早かった。
「穣、新しいの出来たんだって?」
「今度はかなりラブラブな雰囲気を醸し出しているって、見た奴が言ってたぜ。」
学科が同じ友人達に幸せな笑みを向け「ありがとう」と答える穣の姿を見た人達から更に噂は広まる。
「・・・・・成橋さんにとうとう本命が出来たって、聞いたか?」
「知ってる。のろけを聞かされた奴もいたってさ。」
「あーあ、やっぱり本命になる人は大人の人かよ。」
「スーツ姿、見た目も最高に良い男。金有り顔良し、おまけに成橋さんを落とせるならあっちも凄そうだよな。」
噂は勝手に一人歩きしていく。ほんの少しのきっかけで穣に「本命」の彼氏が出来た噂は気づかないうちに学内中を走りぬけた。人の噂も75日というけれど、思ったよりも早く広まった噂に穣は一人笑みを浮かべた。


*****


彼氏が新しくできた。それだけで、日々は確かに変わった。もう、前の彼氏と別れた理由を詮索もされないし、今の彼氏の話題しか上らない。それは願ってもみない事だった。これで、きっぱりと縁の切れた翼の周りはきっと静かで穏やか。彼女と平和に仲良くできるのだと思うとそれだけできりきりと胸は痛む。それでもこの選択を穣は後悔していなかった。

「あれ〜? 珍しいじゃん、この時間まで・・・・・」
「・・・・・課題出し忘れててさ。 そっちは、もう帰るところ?」
「おお! 幸せな成橋に負けない幸せ見つけてくるわ。」
「・・・・・応援してる!」
片手を互いに上げ顔見知りと簡単な挨拶を済ませた穣は教授のいる部屋へとまた歩き出す。帰る時間のせいなのか、結構校舎に残っている人は少なくて、穣の歩く足音はやけに大きく響いた。夕方に近い時間だというのに、窓から差し込む日はまだ明るくて、思わず立ち止まっていた穣は持っていた課題を抱えなおすと再び歩き出した。
課題を届けると学校に用は無いから真っ直ぐに門へと歩き出した穣は鞄のポケットに入れていた携帯を取り出しながら歩く。友人からの下らないメールへと返信しながら歩いていた穣は完全に前方不注意者で、ぶつかった衝撃で弾け飛んだ携帯を目で微かに追いながらも条件反射で慌てて口を開いた。
「すいません! 大丈夫でしたか?」
路面へと転がった携帯を確認しながらも頭を下げてから顔を上げた穣は確実に顔色が変わっていくのを自分でも感じていた。
目の前にいたのは何のタイミングか分からないけれど、門の傍で立っていた人、翼だった。
「・・・・・あの、本当にすいません、前見てなくて・・・・・」
今日は隣りに立つ彼女が見当たらないからきっと帰りを待っているのだろう翼から目を逸らしながら穣は再度頭を下げる。何の言葉も返そうとしない翼に立ち止まるのもおかしいからと、穣は地面に転がった携帯の傍に近寄る。
「・・・・・噂が広まってるけど、「本命」が出来たって本当?」
屈みこみ携帯へと手を伸ばした時、のんびりと呟く翼の声に穣はびくり、と肩を揺らす。だけど、反応したのはそれだけで、すぐに携帯を掴んだ穣は鞄に携帯をしまうとそのまま歩き出す。
「質問にはちゃんと答えろよ! 成橋、男が出来たら前のは話すのも嫌な相手?」
「・・・・・噂は本当だよ。 でも、それは斉藤には関係ないから、二度と関わらないから安心してよ。」
近づこうとする翼へと振り向き笑顔を向けた穣はそのまま口を開いた。その笑みに一瞬戸惑う翼からすぐに目を逸らすと穣は再び歩き出す。
「ちょっと、成橋! 話はまだ・・・・・」
すぐに追いかけて腕を掴んだ翼の声に穣は鞄を持つ手をきつく握り締める。
「斉藤と話す事は何も無いから、この手を離してくれないかな? 俺といるの見られると困るのはそっちだろ?」
「・・・・・成橋?」
「離せよ! さようなら、斉藤」
腕を振り払い駆けだす穣を今度は翼も引きとめようとはしなかった。だけど、穣はそのまま姿を感じられなくなるまで走る。きりきりと痛む胸が更に痛みを訴え、やっと足を止めた穣は肩を揺らし荒い息を吐く。すぐにでもその場に座りこみたい程疲れている足を無理にでも動かし歩き始めた穣はぼろぼろと零れる涙に気づく。声を上げて泣き出したいのを唇を噛み締め堪えても涙は尽きる事なく零れ落ちてくる。まだ姿を見るだけで声を聞くだけで、触れられるだけで体が熱くなる。捕まれた腕をそっと押さえた穣は重い溜息を吐き出した。


次で終わるのかな?
何か微妙ですが続きます。20090725

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