ピンポーン、と少しだけ間延びする呼び鈴の音に部屋に戻った時からずっと床に座りこんだままでいた成はゆっくり、と振り向く。 のろのろと立ち上がる成の視線の先、ドアの方からもう一度ピンポーン、と呼び鈴が鳴る。 ドクン、と鼓動が跳ね上がる。もしかしたら、と期待する自分を必死で否定しながら成は玄関へと歩き出した。
「・・・・・ごめん、いきなり。ちょっと、言い足りない事があって・・・・・」
ドアの前に立ち、そう告げる張り詰めた低い声に成は見上げた視線の先に立つ櫂に何も言えずドアのぶを掴んだまま立ち尽くす。 ドクン、と更に鼓動が跳ね上がるのを感じたまま、成はドアのぶを掴む手とは逆の手をきつく握り締める。
「何を?・・・・・俺には話す事は無い、ですけど・・・・・」
「俺にあるから。 少し時間をくれないか?」
「・・・・・少し、なら・・・・・」
「ありがとう」
懇願する瞳で真っ直ぐに成を見たまま笑みを浮かべてくる櫂から目を逸らすと、ドアのぶを掴んでいた手を離しドアを押し開ける。
「・・・・・成?」
「あの、中へどうぞ。玄関先は人が通るから・・・・・」
芸能人の自分への自覚が薄いのか、躊躇う櫂を成は見上げると無言のまま目線で中へと促し、自分は先に奥へと進んでいく。 お邪魔します、そんな微かな呟きと靴を脱ぐ音、そうして間を置き、歩き出す音が後ろから聞こえてきた。
一人暮らしを始めた時に二人で選んだお気に入りのソファーの上、少しも躊躇う事なく真っ直ぐにそこへと座る櫂に成はキッチンで急いで用意した飲み物を運んでくる。
「ごめん、わざわざ良いのに、すぐ終わる予定だから・・・・・」
足音に顔を上げると戸惑った様にお盆に載せた飲み物を見て呟く櫂の前、成は何も言わずに床へと座りこむ。 飲み物へとすぐに手を伸ばしこくり、と飲み込む音が静かな部屋の中やけに響いた気がするけれど、そのまま俯く成の前で櫂が躊躇いながらも飲み物へと手を伸ばす気配を感じた。
「・・・・・話って、何ですか? 分かってもらえたと思うのですけど・・・・・」
「芸能人だから、俺とはただの友達でいたいって事? それとも、そうじゃなくてもただの友達?」
「何、言って・・・・・」
「世界が違うって言っただろ? 考えたけど、良く分からなかった。同じ世界、同じ国、同じ街にいるのに、住む世界が違うのか?」
「違います、だって、違うだろ・・・・・俺はどこにでもいる普通の大学生だけど、あんたは違う、から・・・・・」
「芸能人って職種だから? そんなの承知で俺と付き合ったんじゃないのか?」
理解してくれたはずなのに、またしても同じ質問を繰り返すつもりの櫂に成は掴んだままのコップをぎゅっと握り締めた。
*****
「そうだよ、知ってて付き合った・・・・・だけど、その時はまだ、共通点が少しは存在したから、だけど、今は違うだろ? 俺とあんたの生活のリズムはきっと全く違うし、努力しないと会える時間すら取れないなら、無理はしない付き合いのできる相手をお互いに探すべきだと思うから、だから・・・・・別れた方が楽になれる。」
「・・・・・俺と付き合って成は辛かったって事?」
「そう思ってくれて良い、です。・・・・・付き合うなんて無理だったんです。 俺が考えなしだったから、だから、ご迷惑をかけました。簡単に頷いてごめんなさい。」
俯いたまま一向に顔を上げようとしない成はそのまま更に深く頭を下げてくる。さっきから、まともに目も合わせようとしない成の頭を眺めているだけの櫂はそっと溜息を零す。 微かに聞こえた溜息に深く頭を下げたまま、成は思わず唇を噛み締める。それから息が詰まりそうな沈黙が続いて、下げた頭を今更上げる事もできずに握ったままのコップをひたすら眺める。
「・・・・・謝るって事は俺と付き合ったのは間違いだって事、だよね。 何か、ただ振られるより惨めな感じがするのは俺だけなのかな?」
沈黙を破り、届いた声は常より低く何かを押し殺すような響きをも伴っていた。成は顔を上げかけ、それでもじっと手元のコップを眺めるだけで、届いた声に否定も肯定もしない。
「・・・・・俺とは何も話す気は無いって事? 今更どうでも良いって事?」
「どんな風に思ってくれても構いません。 俺はもう決めたから、俺の言った事が全て、です。」
尚も言い募る、低い問いかけに成はやっぱり顔を上げる事もなく、淡々と返す。微かに息を吐き出す音が耳に届くと同時にソファーが軽く軋み立ち上がる音がして思わず成は顔を上げるけれど、初めてまともに視線を合わせた櫂は逸らすように背を向けた。
「・・・・・櫂?」
「帰る、わざわざ来て悪かった。 だけど、納得できたからもういいや。・・・・・付き合ってくれてありがとう、と俺は言わないと駄目かな? 安心しろよ、もう二度とお前の生活には踏み込まないから・・・・・バイバイ、成。」
躊躇いながらも名を呼ぶ成へと背を向けたまま答えた櫂はそのまま振り向く事なく玄関へと歩き出しかけ、のろのろと立ち上がろうとした成に気づいたのか足を止める。
「見送りは良いから! それから、俺は友達にはなれないと思うし、どこかですれ違っても無視して良いから、俺も声はかけない、互いを知らない他人になろう。」
「櫂!」
立ち上がりかけたまま呆然と名を呼ぶ成を一度も振り返る事なく歩き出した櫂の背を眺めた成は慌てて立ち上がると玄関へと向かう。 「櫂ッ!」
重い玄関の扉を開き、去ろうとする姿へと成はもう一度その名を叫ぶように呼ぶ。近づいて来た成を認め微かに顔を上げた櫂は僅かに眉を顰めるけれど、すぐに口元に笑みを浮かべた顔を向けてくる。
「・・・・・さよなら、遊佐。」
名字を呼ばれたのは出会った時以来で、思わず足を止める成の目の前、扉は櫂の姿を消し、大きな音を立て閉まる。
*****
その場に座りこみそうな自分を叱咤して、玄関へと向かうと成は扉を開く。静まり返った廊下に既に人影は無い、遠ざかる足音も聞こえない。だから成は何も考えずに廊下へと足を踏み出した。 自分で望んだ結末を一番後悔しているのもまた自分だと知っていたからこそ、走り出す成は階段へと向かいだしてから足を止める。 追いかけて何を言えば良いのかも分からない、「別れる」それは変わらない。嫌いになったわけでも、好きじゃなくなったわけでもない。ただダメだと思ったから導いた結末だった。 街を歩き、店頭に飾られるポスターに映る櫂を見て「凄いな」とただ感動できる自分でいられる関係になりたかった。 ついさっきまで自分に笑い掛けてくれた人が、自分に愛を囁いてくれた人が、本当は物凄く隔たりのある人だと思い知らされる、そんな心の狭い自分のままでいたくなかった。 バイトしている間、友達と騒いでいる間、ほんの少しでも櫂の名を聞けば、そちらに心動かされる、そんな愚かな自分のままでいたくなかった。 好きで、好きで、どうしたらいいのか分からなかった。 いつか、こんなにも心の狭い自分を知られたら、きっと嫌われるそれが怖くて、だから考えた結末だったのに、そのはずだったのに、たった一言送ったメールに何の反応も無いのが寂しくて、それだけの存在だと言われているみたいで、それでもわざわざ訪れて理由を聞こうとしてくれたのが本当は嬉しくて、でももうダメだと思う気持ちが強かった。 他人になりたいわけじゃなかったのに、本当に普通に笑ってくだらない事を話せるただの友達になりたかっただけなのに、階段を見つめたまま成はその場にずるずると座りこんだ。 追いかけても言葉は見つからない。 友達になりたい理由が、くだらない自分の心の狭さのせいだなんてやっぱり知られたくなかった。 それに、友達になんてなれないのは成が一番良く分かってた。 友達になるには互いを知りすぎた。 自分はあの声も温もりも全て覚えている、一番近くで囁かれた言葉、一番深く繋がった温もり、その全てを無かった事にできるわけがない。それでも、友達でもいいから、どこかで櫂と繋がりを持っていたかった。 住む世界が違う、生活の基盤が違う、だけど、ほんの少しだけでも、友達という細い糸でも繋がっていたかった。
階段の見える場所で足を止めたまま成は力なくその場へと座りこんだ。 引き止める理由なんてどこにも無いのだと分かってしまったから、友達でいたいのは成の我が儘で、それが無理な事にも本当は気づいていた。恋人が出来た話をその声で聞かされればきっと自分は傷つくだろう。 週刊誌で見るのと本人に聞くのでは雲泥の差だ。本人に聞くのだから、それは現実にもなる。 そんな現実に成は耐えられる自身は無かった。 想像するだけで辛いのに、大切な人の事をその時、自分がどんな顔で聞いているのか想像するだけで泣きたくなってくる。 いつまでもこんな場所に座っているわけにはいかないと自分の現状に気づいた成はのろのろと立ち上がった。 今はまだこんなに好きでも、テレビに映るその姿を眺めれば、雑誌や店頭を飾るポスターを見かければ、この選択は正しかったのだと思う様になる。週刊誌にいつか載るかもしれない櫂の恋愛報道だって、他人事の様に眺める自分になれるはずだと、そう思える自分になれる為に、立ち止まるわけにはいかなかった。 廊下の冷たい床が靴も履いていない足に直に伝わってくる。周りを眺め、人一人いない空間である事にそっと息を吐き出すと、成はドアを開けたまま飛び出した自分の部屋へと歩き出した。
*****
いるはずの無い人影がドアの前にいるのに気づいたのは成が先だった。開けっ放しにしたままだったはずのドアを閉め、そこに背を押しつけ立つ姿は遠目から見れば見るほど、目立つ存在だった。 芸能界という特殊な世界にいるのであれば、個人個人の特徴豊かでないと生きていられないのだと思う。華やかな世界に見合う特性。それは、一般人の成が一生知る事の無いモノだった。
「・・・・・なんで、ここに・・・・・」
近づいてきた成に気づいたのか顔を向けてきた櫂は寄りかかっていたドアから背を離すと何も言わずに近づいて来る。 目の前に無言で突き出された腕に何の事か分からないまま反射的に手を出した成は掌に落とされたモノに目を瞠る。
「・・・・・これ・・・・・・」
「返しそびれてたのに、気づいたから。・・・・・それで、何で靴履いてないの?」
「・・・・・これは・・・・・」
「まぁ 俺には関係ないけど、鍵、手渡しの方が良いと思ったから、それだけ。」
淡々と答える声に温度は無い。聞かれた事に事務的に答える声は硬質で冷たさも感じられる。 手の中の鍵をじっと見つめたままの成に声をかける事無くそのまま背を向けると櫂はすたすたと歩き出す。 握り締めた鍵が手の中の温度へと変わっていくのを感じながら、顔を上げた成の瞳に映るのは遠ざかる櫂の背中で、言うべき言葉も見つからずにただじっと見送る成の目からその背中はすぐにでも消えていきそうだった。 手を伸ばしたい衝動が体中を駆け巡る。 最後だと思っても、それでも縋りつきたい欲望が心の奥底から溢れだしてくる。 これが正しいのだと、何度言い聞かせても変わらない、それがたったひとつの真実で成の偽りない本心だった。
「櫂!!・・・・・・って、待って!」
だからこそ、消えそうな背中に、ここがアパートの廊下である事すら忘れて、成は叫ぶ。素足のまま追いかけるその頭の中にあるのはただ失くしたくないそれだけだった。
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