愛しい貴方もいつかこの手で

壊して

しまうのかしら

2


お試し期間を設けられた。
それが譲歩できる最善の策だと、苦笑を顔に浮かべた海斗が告げる。
一も二もなく、頷く穂積に海斗は期間は「一ヶ月」だと指を一本立てながら口を開く。
「俺には、やっぱり信じる事は出来ないから、だから、一ヶ月、君が俺だけを見ているなら、考えてみる。 でも、恋人じゃないから、会うのは構わないけど、それ以上はしないから!」
頑なな態度を少しだけ和らげ告げる海斗に穂積は何度も頷く。一ヶ月後、念願の思い人がこの手に戻るのなら、多少しんどくても我慢できる、そう思った。多少の禁欲よりも、一ヶ月後の幸せを頭に描き頷く穂積は海斗が僅かに眉を顰め、そっと溜息を零したのにもとうとう気づかなかった。一ヵ月後、元に戻れる、そう信じていた穂積は海斗の含みのある言葉の意味を深く考えもしなかったから。

禁欲生活の間も海斗は会うだけなら構わない、そう言ってくれたから、穂積は仕事の暇を見つけては海斗にメールを送り、時間の都合をつけ会いに出かけた。
何をしても悪い方向へと向かっていたのに、気分が違うだけで仕事も楽しくて、初心にかえった仕事でも不満なんかどこにも無かった。夜もぐっすり、と快適に眠り悪い夢も見なかった。毎日が充実しているとはこういう事だと、改めて思う程に運気が上がってきた気がしていた。
触れる事すら許されないけれど、傍にいれるそれだけで、穂積の心は軽くなっていく。この調子で一ヶ月なんてあっという間に乗りきれる、そんな自身があったし、そうである事を少しも疑いはしなかった。

あんなに躓いていた仕事もスムーズに予定より早く終わり、穂積は手早く身の回りを片付けると早々に会社を後にした。
歩きながら携帯を取り出しメールを確認していた穂積は丁度変わる信号に気づき足を止める。
ちらちらと信号を眺めながら、時間を確認した穂積はこの時間なら家にいそうな海斗へとメールを送る。
会えるか会えないかは返信が来るか来ないかで決まる。信号が変わるのをちらちらと見上げ待ちながら締まったはずの携帯を何度も取り出した穂積は反対側の歩道を歩く人影が視界に入る。
暗くて顔は分からない、けれど背格好でどちらも男だと認識する。仲が良い同僚、もしくは公にはいえない恋人同士、そんな距離にいる二つの人影を思わずぼんやりと眺めていた穂積は通る車のライトで思わず目を見開く。
反対側の歩道を並んで歩いていたのは海斗と穂積の知らない男だった。
仲が良いのだろう、会話こそ聞こえないけれど、時折聞こえる笑い声で完全に二人の世界を築いていると気づかされるその雰囲気に穂積はこくり、と喉を鳴らす。そうして、初めて、海斗の告げた言葉を改めて思い出す。
『俺には、やっぱり信じる事は出来ないから、だから、一ヶ月、君が俺だけを見ているなら、考えてみる。』
考えてみる、と海斗は告げた。恋人に戻すとは一言だって言っていない事に穂積は今更気づく。
手に触れる携帯がやけに冷たく感じ、穂積は微かに唇を歪める。
一ヶ月、穂積が海斗だけを見ていたとしても、心がすでに離れた人を手に入れる事は不可能だ。体の良い言い訳、もしくは、関係がきちんとするまでの繋ぎに利用されたに過ぎないのだという思いが心の奥底を占める。例え、それが穂積の思いこみだとしても、元に戻るのは不可能だと気づかされた。後ろを向いていたのは自分だけ。裏切られた恋をさっさと忘れ、前に進むのは人として当然の選択だと穂積にも分かる。
うかつに声を掛けられない二人から目を逸らし、穂積は信号が変わる前にゆっくりと気づかれない様に背を向け歩き出した。


*****


歩きながら鳴らない携帯を取り出した穂積の頭の奥には、仲良く歩く海斗と知らない男の姿がちらちらと何度も浮かび上がる。
最近海斗が穂積に見せる困った様な笑とは違う。
自分の前ではもう浮かべる事も無くなった本来の柔らかい笑みを向けていた相手の男の顔をあまり見ていなかったのが残念でならない。見てみれば良かった。戻る事の無い、海斗の心を奪った人を記憶に焼き付けておきたかった。
闇の中立ち止まり意味も無く、何度も取り出した携帯を眺めた穂積は大きく息を吸い込むと走り出した。

何度も足を運んだ馴染みの場所だけど、進むのを躊躇う程緊張したのは、あの日海斗へと自分本位の身勝手な願いを聞いてもらうために訪れた日以来だった。
一度立ち止まり深呼吸をした穂積は一度上を見上げる。丁度、海斗の部屋の辺りを眺めてみるけれど、暗いのか明るいのか、カーテンが引かれていて良く分からない。留守だと分かっているけれど、ただの帰宅途中だったのかもと微かな希望が歩いている間に胸に灯り、思わず足がここに向かっていた。緊張で汗ばむ手を握り締めた穂積は階段へと足をかけた。
呼び鈴を押そうと手を伸ばしてから、穂積は別れを決めたあの日、返しそびれた部屋の鍵を取りだす。貰った時から自ら使用する事のほとんどなかったそのシルバーの鍵を握り締めると鞄の中に入れていたおかげかひんやり、と金属特有の冷たさを感じる。鍵が変わっていない事を祈りつつ鍵穴にそっと差し込んだ鍵はかちゃり、と扉を開けてくれた。ドアをゆっくり開いた先は真っ暗で、まだ帰宅していないんだ、と思いながらも穂積は部屋の中へと足を踏み入れる。きしり、と軋む板の間を薄暗い闇の中ゆっくり、と進む穂積はドクドクと高鳴る胸をぎゅっと握り締める。
胸騒ぎがずっと消えない。居ないと分かっていても、部屋に上がりこまずにはいられなかった、予感。
人の気配一つしない部屋、薄暗い部屋をぐるり、と見回しても違和感の一つも見つからない、そのはずなのに、まだ収まらない高鳴る胸を抑えながら穂積は寝室へと歩き出す。

「・・・・・・あんっ・・・・・あっ、くんっ・・・・・・んっ、んぁ・・・・・」
寝室の扉に手をかけた瞬間聞こえる甘い喘ぎに穂積はこくり、と喉を鳴らす。震える手でのぶを握り締めゆっくり、と回しほんの少しだけ開いた扉の隙間から覗き込んだ中も同じく薄暗い。
「先輩・・・・・っ、先輩、好きです、好き!」
「あっ、やっ・・・・・いいっ、いいっ・・・・・・んああっ・・・・・!」
「・・・・・先輩っ!!」
窓から差し込む月明かりに照らされほんのり、明るいベッドの上、絡み合う二人の行為を眺めた穂積はぱたり、と扉を静かに閉めるとのぶを離し震える手を握り締め大きく息を吸い込む。未だに聞こえる、海斗の甘い喘ぎ声、粘着質な結合している場所から漏れているのだろう水音、軋むベッドの音、絡み合う二つの吐息。その全てから逃れる様にそのまま穂積はゆっくり、と来た道を戻るかの様に玄関へと辿り着き、そのまま来た時同様に静かに扉を閉めると鍵をかける。そして、掌の上にある鍵を新聞受けへと入れる。かたん、と金属の小さな音が聞こえるのと同時に穂積は二度と来る事は無いだろう部屋に背を向けた。


*****


「堂島、最近またミスが多いぞ・・・・・大丈夫なのか?」
「・・・・・すいません! やり直してきます。」
少しは調子を取り戻したはずの部下の再びの不調に眉を寄せる上司の渋い言葉に穂積は深く頭を下げるとミスした書類を手に早々に自分のデスクへと戻る。ミスした書類のファイルをPCに呼び出し隅から隅へと眺め間違いを訂正していく穂積は唇を噛み締め画面を食入る様に見つめる。
調子が悪い理由が失恋だなんて、社会人にあるまじき行為だと自分の情けなさにはほとほと呆れる。
海斗の部屋に向かい、彼と新しい恋の相手だろう別の相手の行為を見た日から、海斗との連絡は絶った。穂積が連絡しなければ、何も連絡を寄越さない海斗にこの恋は失った瞬間から取り戻せないものだったのだと自嘲の笑みしか零れなかった。
これが、恋人だった海斗を裏切った自分への報復なんだろうと思うと成功だと何度も呟きたくなった。
そして、戻れるどころか、恨まれていた自分であった事に穂積はやっぱり笑う事しかできなかった。
一字一句間違いの無い書類を提出してから、他にも抱えている仕事を一から洗い直す。全てが終わった時には時計の針は結構な時間を指していて、穂積はのろのろ、と帰り支度を整え、歩き出した。
会社から駅までは歩いて5分。ほとんど一直線の道をのんびり歩きながら、穂積は空を見上げて思わず立ち止まる。
都会の空は田舎に比べるとどうしても濁っているのだそうだ。星のひとつやふたつ見れれば良いほうで、見上げた空には自己主張するかの様に 燦然と輝く月の他には何一つこれ、といった星の形は探せなかった。
丸く黄色い月までがぼんやり、としていて、穂積は頭を振るとのろのろ、とまた歩き出した。
決まったコース、お決まりの場所。何度も駅を通る内に同じ場所を通っているというのは良くある事で穂積も例外ではなかった。慣れたコースを歩く穂積は改札を潜るために定期を取り出そうとポケットを探り、そこに無いのに気づき慌てて鞄を持ち上げたその時、聞き覚えのある声を聞いた。
「堂島!」
とうとう幻聴まで聞こえるほど落ちぶれたのかと自嘲の笑みを零しながらも鞄を探る穂積の耳にその声は再び届く。
「・・・・・海斗・・・・・奇遇だな、今・・・・・帰り?」
顔を上げ近づいてくる人を認めた穂積は内心の動揺を知らせない為に笑みを浮かべ答える。
内心の動揺を誰にも、目の前の人物にも知られたくなくて、穂積はひたすら笑みを浮かべた顔のまま近づいてくる海斗へと目を向けた。
「・・・・・あの、約束の一ヶ月がすぐだろ? だから、答えを告げに・・・・・」
「律儀だね、わざわざ良いのに。 で、何を?」
「・・・・・・堂島?」
目の前まで近づくと躊躇う様に言葉を繋げる海斗に穂積は変わらぬ笑みを浮かべたまま答える。不審そうに見上げ名を呼ぶ海斗に笑みを向けた穂積はそのまま息を吸い込むと口を開く。
「あれは、もう良いよ。 忘れてくれて良いから・・・・・どうかしてた、迷惑かけて悪いね。 じゃあ、オレ、急ぐから・・・・・どこかで会っても無視だけはしないでよ。 さよなら、結城。」
眉を顰め見上げる海斗に穂積は淡々と言葉を繋げると笑みを返し、そのまま歩き出す。
「待って、もう良いって・・・・・オレはまだ何も言ってないのに・・・・・」
慌てて腕を掴み引き止めながら告げる海斗に穂積は更に笑みを深くすると、少しだけ強引に縋りつく手を振り払う。
「答えは分かってるし、わざわざ言わなくても良いよ。 おめでとう、結城。復讐はちゃんと成功したよ!」
答えに戸惑う海斗に背を向けた穂積は取り出した定期を片手に歩き出した。改札を潜る時もホームに向かう時も穂積は頑なに後ろを振り向く事は無かった。

- continue -


長くなりそうなので、ここで切ります。
怒涛の展開では無いですが、まぁこの先どうなりますか; 20100218

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