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追いかけても届かない背中に必死に手を伸ばそうとした楓はその時になってやっと隣りに知らない誰かがいた事に気づき、伸ばした手を思わず引く。そんな楓を一瞥した圭司は微かに唇を歪めにやり、と笑みを向けすぐに背を向ける。一人、ぽつりと立ち尽くした楓は溢れ出し止まらない涙をぼろぼろ、と零しながら遠ざかる足音を聞いている。足元から這い上がる闇に全身がゆっくり、と覆いこまれていくのを感じながら一歩もその場所から動く事すらできずに。
夢と同じ様に泣いていたのか、ぼろぼろと、零れる涙を擦ると目元がひりひり、として少し痛かった。ぼんやり、とまだ完全に覚めない頭のまま辺りを見回しかけた楓は久々に眠った柔らかい布団の感触に頬を擦りつけたと同時に思わず跳ね起きる。急速に昨夜の事が楓の中に蘇り、慌てて起きあがろうとした途端にじゃらり、と足を引く金属音が鳴り、ベッドの下へと転がり落ちる。視界に映ったのは、ベッドの足に絡まる頑丈な鎖と南京錠。目覚めた時から妙に違和感を感じていた足元に目を向け楓は頭から水を被ったかの様に一気に目が覚める。 ベッドの足と同じ様に片足に巻かれた頑丈な鎖、外す事ができない様につけられた南京錠。繋がれている、そのままの自分に楓は慌ててあたりを見回した。 楓の寝ていたベッドと窓、それにドア、それ以外何も無いがらんとしたその部屋には見覚えがあった。 数ヶ月前迄はそこそこ物があったはずの楓の部屋だったその場所は売れるモノはほとんど売り払ったおかげで持ち運びできなかったベッドしか残せなかった。二度と戻る事の無い場所だと思っていたその部屋の中、楓は呆然と床に座りこむ。 時計も無い部屋の中、窓から差し込む陽でしか判断できない時間は少しだけ心もとないものだけれど、もう太陽が上まで上り、下りていく最中なのだと何となく分かる。絶えず空調が聞いているのか、素肌にシャツ一枚、それだけの姿なのに肌寒さも暑さも感じない部屋の中、座りこんだまま呆然とする。 零す溜息さえやけに大きく響き、ますます一人でいるのだと確かめさせられ楓は今はいない圭司を思う。 彼が何を考えているのか、どうして、鎖に繋がれ楓はここにいるのか、疑問に答えてくれそうな人は圭司しかいなかった。
ベッドの下、蹲り膝を抱え座りこんでいた楓は、がちゃがちゃ、と扉の開く音に思わず顔を上げる。 圭司なら真っ直ぐにこの部屋に来るはずだと確信にも似た思いを抱く楓の予想と反して、足音は部屋には一向に向かわない。どこにいるのかはだいだいの予想でしか無いけれど、この部屋に戻るのは圭司だけでは無い事に今更気づく。 楓の去った後、知らないモノが増えていた。楓と圭司の部屋だったはずのこの場所の異分子はまさに楓の方だと主張するかの様な知らない誰かのモノ。思わず息を潜め、身を縮める楓がこの部屋にいる事に気づかないのか、または興味が無いのか、たぶん後者だろう事はあの電車での会話で分かりきっていたけれど、もしも、気づかれた時の不安が消えない。 邪魔者だと言われた自分がこんなみっともない姿でこの部屋に居る事は知られたくない。そんな楓の不安をよそに足音は居間と台所だろう辺りを行き来しているだけで、近づく気配すら無かった。
*****
逃げる事すら出来ないまま息を潜め、ずっと蹲っていた楓はそのまま眠ったらしく、扉の開く音で起こされる。差し込んでくる光で部屋の中が真っ暗なのに気づき、開いた扉へと無理な体勢で眠ったせいなのか体の節々が痛むのに微かに眉を顰めたまま顔を上げる。 背後から差し込む光では顔すら判別できないけれど、すぐに圭司だと分かった。そもそも、この部屋に訪れるのはここに楓がいると知っている圭司だけだ。
「・・・・・日野?」
ほぼまる一日出さなかった声は擦れて、名前を呼んだはずだけど、それは音にすら聞こえない低い呟き。そんな楓の元に無言で近づいて来た人影は同じ目線になるためすぐ目の前へと屈みこむ。 窓から僅かに差し込む月の光に映し出されたその顔は予想通り圭司だった。 目の前に屈みこみ、それでも無言の圭司を楓はただ睨み付ける。それが虚勢だと分かってはいたけれど、それしか出来なかった。言いたい事はあるのに、巧く言葉にならない、それならば、僅かな意思を見せる事しかできない。 そんな楓の目の前、圭司はただ唇を歪め、笑みを浮かべる。
「・・・・・っ、んで・・・・・何で、こんな・・・・・」
続く沈黙とただ笑みを浮かべるだけの圭司にぶるり、と背中に悪寒が走り、思わず震える手を握り締めた楓は擦れた声を搾り出す様に問いかける。言いたい事はあるのに、声がうまく出ない。震えて擦れる声をそれでも絞り出す楓に圭司は微かに息を吐いた。
「逃げたから、逃げたら人って追いかけたくならない?」
呆然と目を瞠る楓の目の前、屈みこんだ圭司は笑みをそのままに今までの無言が何だったのか分からない程にあっさり、と告げる。
「・・・・・それ、は・・・・・・」
相変わらず擦れているけれど、少しづつ声が戻ってくる楓が微かに呟くのを圭司は遮る様に言葉を続ける。
「話があるってオレは言わなかった? 一方的に切られるのってオレは一番むかつくんだよ!」
浮かべていたはずの笑みを消し去り、顔を覗きこむ様に呟いた圭司は黙り込む楓の胸倉を乱暴に引き寄せる。
「・・・・・今更悔やんでも逃げた事は変わらないし、オレを拒んだ事実も消えない。 楓が悪いんだろ? 向き合う事もしないまま逃げる事を選んだんだから、な。」
耳元へと告げる圭司の低い声に楓はただ唇を噛み締める。どうして、何が、疑問だけが膨れ上がり、寒くもないはずなのに体の震えが止まらない。そんな楓に圭司は息がかかるほど顔を近づけてきた。 押し付けられたモノが何なのか、最初は巧く理解できなかった。間近に迫った顔、閉じられる事なくじっと見つめてくる瞳に暗い熱が篭るのを見た気がした。 躊躇う口の中を縦横無尽に動き回るねっとり、とした熱を持つ舌に侵される、身動き一つ満足に取れない楓の胸倉を掴んだ腕は唯一自由のきく両腕を一つに纏め抑えこんでくる。 高々と上げられた両腕をベッドに押さえつけられ、楓は口の中を自由にされたまま空いている手がシャツの中へと潜りこむのにびくり、と体を揺らす。 逃げる事すらできない、背にはベッド、目の前には圭司。鎖に繋がれ、自由にならない足。嫌悪なのか恐怖なのか分からないけれど、ぼろぼろと涙が零れ落ちてくる。息継ぎすらできないまま呼吸まで犯される。 元々薄手のシャツ一枚だったのに、そのシャツを取り払われ、上げられたベッドの上、楓は唯一自由になる両手で必死に拒むけれど、ささやかな抵抗は無駄に終わる。
どうして、何で、ぐるぐると頭の中を駆け巡る疑問に答えてくれるはずの人は何も語らないまま、楓を組み敷く。乱暴に剥ぎ取られたシャツ、素肌を這う、手と舌。ベッドに押し付けられたまま、漲る欲望を主張する圭司自身を押し付けられ、ぐいぐい、と前戯もそこそこに奥へと入り込まれる。 痛い、と何度も擦れた声で呟く楓の声もぼろぼろ、と零れる涙も行為を止める理由にはならなかった。 一方的な行為、がんがんと腰を動かす圭司は抵抗らしい抵抗も見せない楓をひんやり、と背筋に冷たい汗が流れる程凍る目で見つめてくる。その瞳のどこにも熱が篭る事なく、楓は必死に顔を逸らすけれど、すぐに顔を捕まれ真上にある顔が視界に入る場所へと固定され、何度頭を振ってもすぐに戻される。だから、精一杯楓の出来る事は苦痛に歪む顔を必死に取り繕い、真上にある顔を唇を噛み締め睨み上げる事、それだけだった。 生温い液体が体の奥で弾け、微かに眉を顰めた圭司はずるり、と自身を引き抜き楓の上から身を退ける。 寝転んだまま起き上がる気力がない楓の自分が抜き去った場所から零れる白濁と血液を一瞥した圭司は無言のまま部屋を出る。素っ裸のままの楓は出て行く圭司の後姿を視界に入れ、彼が一度も服を脱ぐ事が無かった事に今更気づき微かに唇を歪める。 時間の経過も分からない部屋の中、楓は今すぐ笑い出したくて堪らなかった。そんな時、耳に届いたその声に楓はびくり、と身を震わせる。
「圭司? どこ、行ってたのよ! そこの部屋、何かあるの?」
「・・・・・何も無いよ、こっちには近づくなって言ってるだろうが。」
甘える様なその声に聞き覚えがあった。遠ざかりながら告げる圭司の声に尚も絡みつく様に答える甘い声もまた遠ざかる。 唇を噛み締めたまま、息を潜めた楓は何も分からない圭司の行動にただぼろぼろと零れ落ちて行く涙をそのまま、暗い部屋の中、身動き一つできないまま横たわっていた。
*****
「・・・・・んっ、っく・・・・・」
唇を噛み締め、シーツを握り締め眉を顰めた楓の腰を掴む圭司はただ腰を揺する。相変わらず、楓の服を脱がせても、圭司は服一枚脱ごうとしないまま、ただ前を寛げるだけ。あれから圭司はまともに楓と話す事すらしない。ただ楓を組み敷き、欲望を吐き出し部屋から出て行くその繰り返しが続いている。足へと繋がれた鎖は次の日に外されたけれど、与えられたのはシャツ一枚で、ズボンも靴はもちろん、下着すら圭司は与える事が無かった。 鎖を外されても着るものが無い、鎖を外されても囚われているそんな気分だった。 用を足すそれ以外に部屋から出る事の無い楓には時間の感覚すら無い。囚われてどのくらい経つのかわからないけれど、バイトは首だろう。だけど、唯一残されたロッカーにある私物だけは取り出したかった。 微かに苦笑を浮かべる楓は圭司に更に奥を深く突き上げられ、低く呻くと枕へと顔を押し付けた。 柔らかいベッドで眠れても、ここから逃げた時に比べると身も心もどっしり、と澱を作った様に重い。鎖を外され、どこにでも自由に移動できるはずなのに、今の楓には何も残っていなかった。 自由になる足に履く靴も身を包む服や下着、移動するのに必要になるお金、何一つ、楓にはなかった。 あれから、圭司は楓をまともに見ようともしない。ベッドにうつ伏せに押し付けると背後から圧し掛かり、欲望を押し付ける。吐き出された欲望の残骸が足にこびりついているのが視界に入り、楓はふらり、とベッドから立ち上がる。 どうして、何で。相変わらず渦巻く疑問に答えてくれるはずだった圭司の行動に答えは見つからない。 熱いシャワーを頭の上から浴びながら、どうすれば良いのか分からない楓はゆっくり、と瞳を閉じる。
痛いじゃなくて暗い? どこに向かうのか私が知りたいです。 短編のはずなのに;まだ続きます。 20100207
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