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バイトの時間を増やし、小銭で入れる小さな大衆浴場を近場に見つけ、ネットカフェで寝泊りしながら、時間の合間に楓は部屋に置いてある自分の鞄に入らない、けれど手で持てる荷物をこつこつと持ち出す。
楓が居なくても変わらない部屋への感傷はすぐに一日で消えた。
そうして、ここはもう自分の帰る場所では無いのだと認識する。
知らないモノが増えていた。きっと彼女と暮らしているのかもしれない、なら圭司に会う事も同じ家に住んでいるだろう彼女に会う事も避けないといけない。必然的に平日の昼間にしか訪れない部屋から手で持てる荷物を全て持ち運んだ楓は自分の部屋だった場所を暫く眺めるとすぐに背を向ける。
時間を確認する為に腕にした時計を眺めると、最後の荷物を運び終えた今はすでに夕方に近い。
楓は慌てて扉の鍵をしめると、手にした鍵をポストへと投げ入れ二度と訪れないだろう部屋に背を向けた。
想像通り二束三文にしかならなかったけれど、それなりの金額にはなった私物を売って手に入れたお金を財布に仕舞いこみ、楓はあれから、全く通っていない大学へと足を運んだ。
退学届けを出すと決めたけれど、知り合いに会わない時間帯を選びたくて、やっと今日都合がついた。
通いなれた道を通るとほんの数年しか通っていないのに、感傷が胸の中篭る。
手続きを終え、門から出た瞬間、楓は何もかも失くしてしまったのだと初めて思った。
積み重ねたはずの思い出も一瞬で消えてなくなる。記憶が有っても、意味は無い。腕時計のアラームが鳴り、楓は来た道を戻り出す。もう少し稼いでそしたら、ネットカフェから卒業して部屋を借りよう、そう考えながらとぼとぼと楓は歩き出した。

駅のホームで電車をぼんやり、と待っていた楓はべったり、と腕を組んで歩くカップルが近づいてくるのがたまたま視界に入る。何となく見てはいけない、と視線を逸らしかけた楓は片割れが良く知っている相手な事に気づいた。
腕を絡めべったりくっついている女にも何となく見覚えがある。
あの日、顔までしっかり見えたわけでは無いけれど、確かにベッドの中にいたのはこんな顔をしてはいなかっただろうか?
つい凝視してしまいそうな自分を抑え楓は視線を逸らし、俯く。
「ねぇ、今日は泊まっても良いでしょ?」
「今日は? 今日もの間違いだろ、いい加減家に帰んなくて良いのかよ・・・・・」
「だって、傍にいたいんだもん。 ねぇ、良いでしょ?」
「勝手にすれば。」
投げやりな男の答えに媚を売る女の甘ったるい声が近づいてきて、楓はどくどく、と激しく音を立て出す胸をぎゅっと抑えこみ、俯く顔を更に下へと向ける。
電車が入ってきて、すぐに声は聞こえなくなったけれど、近くにいるのかと思うと顔も上げられない。
乗り込んだ車両には、楓の他にもたくさんの人が乗ってきて、同じ車両で無い事を祈りながら、楓はそろそろと顔を上げると動き出す景色を眺める。
「そういえば、同居人帰ってきた?」
耳に届く声に楓はびくり、と肩を震わせる。問いかけるその声は先ほどの声と変わらない。
「さぁ、知らね。・・・・・何で?」
「・・・・・うん、帰ってきたら、ちょっと邪魔でしょ? 私も何か居辛いし・・・・・」
「そう? 構うことねぇーよ。 向こうだって、好きにしてんだろうから。」
会話に思わず耳を欹てていた楓は微かに口元を歪める。
最近確かに邪険にされてはいたけれど、コレほどだとは思ってもいなかった。まだ続く会話に耳を傾ける気は当に失せた楓は流れる景色に目を向けたまま唇を噛み締める。
今更、だと思っているのに、それでもはっきり言われれば傷つく自分に泣きたいのか笑いたいのかも分からなかった。
逃げる様に電車から降りた楓は真っ直ぐに駅のロッカーへと向かうと荷物を取り出す。
大きな鞄に詰めるだけ詰めた荷物は今必要な物以外ほとんど処分したから、今は前よりもコンパクトになったけれど、持って移動は手間になるから、相変わらずロッカーに押し込んだままだった。
鞄の中から明日の服を取り出し、手に持っても違和感の無い小さなバッグへと詰め込むと、ここ最近の寝床になっているネットカフェへと歩き出す。今の楓にはささやかながらも小さな目標がある。
自分だけの城を手に入れる事。
失った恋にいつまでも縋りつく余裕なんてどこにも無かった。


*****


「よぉ、久しぶり」
声を掛けられ、冷水を頭から浴びた様に顔色を変える楓の目の前で圭司はにっこり、と笑みを向ける。
それは望んでいたはずの笑みと違い、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じるほど冷たい笑みだった。
「・・・・・いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか?」
辛うじて頭の中に浮かんだマニュアルを口にする楓に圭司は眉を顰めるけれどすぐに笑みを向ける。
「コーヒーを一つ。 それから、話があるんだけど、あんたに。」
指を立て一、と向けたそれを圭司はそのまま楓に向ける。頭を下げその場をすぐに離れたけれど視線を強く背中に感じていた。
仕事が終わらないので無理です、それが逃げる言い訳だと分かっていたけれど、コーヒーを持っていきながら、ひっそり、と呟く楓に圭司は終わる時間を聞いてくる。話す事も話したい事も無いのに、楓が終わる時間を告げると圭司は微かに頷き待ってる、と呟く。
仕事をしているのに視線を感じ、生きた心地がしないまま事務的にバイトを終え着替えた楓は出口に座りこみ煙草を吹かしている影を見て微かに溜息を零した。
「・・・・・何の話、でしょうか?」
「ここで話す気? どこでも良いから移動しよう。」
目の前で足を止め、呟く楓を見上げ、吹かした煙草を地面に押し付け圭司は立ち上がる。
「オレには何も話す事はありません。」
「・・・・・残念だね、オレにはある。 あそこで良いや、来いよ。」
頭を振り、すぐにでも離れようとする楓に圭司はその腕を掴むと強引に目の端に映った店へと歩き出す。楓の働いているレストランと違い、24時間営業のレストランの中へと入った圭司はそのまま奥の人目につかなそうな席へと座る。
「いつまで立ってんの? 座れよ、話がしたいって言っただろ?」
腕を引こうと手を伸ばす圭司から一歩足を退いた楓はのろのろと席へと座る。
店員が水を持ってきて、適当に飲み物を頼んだ圭司は飲み物が届いても何も言わない。無言のまま煙草を吸う圭司に息苦しさを覚えながらも楓も俯いた顔を上げないまま座っていた。
沈黙を破ったのは、頼んだ飲み物が冷めてきた時、ずっと無言のままでいた圭司から口を開いた。
「お前、今どこにいんの? あそこから何勝手に出てんの?」
「・・・・・関係無いです。オレがどこにいようと、何をしていようと、日野には関係ない。」
「何、それ。 だからって一言ぐらい有っても良くない?」
「話ってそれ、ですか? なら、オレは家を出ました。 あそこにオレは戻らないし、好きにして下さい。これで良いですか?」
「そう、じゃないだろ?」
「・・・・・オレにはもう話す事は無いですし、大学にも親にも連絡済みです。 残ってる荷物は勝手にして下さい。 じゃあ、さようなら」
「楓!」
温くなった飲み物を一気に飲み干し立ち上がると楓は飲み物代をテーブルの上に置くと呼び止める圭司の声に背を向ける。さっさと一人店を出た楓はそのまま、今夜の寝場所へと予め決めていたネットカフェへと続く道を歩き出す。

「待てよ! 話はまだ終わってない!!」
腕を捕まれるのと同時に話す低いその声に楓はそっと溜息を零すと後ろへと目を向ける。
慌てて会計を済ませ外に出てきたのか、肩を揺らし荒い息を吐いている圭司に楓は無言のまま再び溜息を零す。
「話す事なんてありません。 オレがどこで何していようと日野には関係ないし、逆も同じ。 同居を確かに勝手に解消したのはオレだけど、日野にも都合は良かっただろ?」
「・・・・・何の事だよ・・・・・」
「オレがいなくなって、彼女連れ込み放題じゃん! まぁ、いた時から連れ込んでたみたいだけど・・・・・誰にも遠慮する必要もなくなっただろ?」
一気に吐き出す楓の言葉に圭司は呆然と目の前の顔を凝視してくる。気づかれていないと信じていたのだろうその驚きに意趣返しをしたみたいで、楓は微かに笑みを浮かべると未だに捕まれたままの腕を引き剥がす。
「さようなら、日野。 どこかで会っても二度と話かけないで下さい」
念入りの様に言葉を繋げ、にっこり、と最後に笑みまで浮かべながら楓の内心は今すぐにここから離れたくて仕方なかった。
好きな人だったのだ。裏切られたからって簡単に消せる思いじゃなかった。だけど、目の前の人に惨めな自分の心を知らせたくなかったから、楓は呆然とする圭司からすぐに背を向け歩き出す。
最新の注意を払うのはひとつだけ。決して逃げるんじゃない、普通に歩く速度、それだけは守りたかった。それが楓に残された、唯一のプライドだったから。

そして、縁は切れる、そう信じていたし、疑いもしなかった。最後通牒だと投げつけた言葉が圭司に現実を思い出させるなんて思いもしなかった。
腕を再度捕まれ、楓は過剰に肩を震わせ足を止める。振り向くのが怖かった。
「・・・・・ふざけんなよ! 二度と話しかけるな? お前が言う言葉じゃないだろーがっ!」
低く、腹の底から響く低音の唸り声に楓は背を向けたまま、こくり、と喉を鳴らす。
「離して、くれない・・・・・もう、話は無いはずだろ?」
「まだ、何も話してないのに?」
一段と低くなった呟きと同時にぎりり、と腕を掴む力を更にこめられた楓は背筋にぶるり、と寒気が走り、腕を振り払い逃げようともがく。だけど、それは遅かった。どん、と腹に衝撃が響き楓のもがきはぴたり、と止まり膝ががくり、と落ちる。
「・・・・・本当に逃げれる、と思った?」
薄れる意識の中、低い圭司の呟きと唇の端を奇妙に歪めるその表情が霞む視界の片隅に強く焼きついた。


暗いまま次は痛いのも入る予定です。 20100129

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