Because I am me

1

目の前があまりのショックでくらくらする。
分かっていたつもりでいただけだと気づかされたそれは今でも胸の奥癒えることなくじくじくと疼いている。

本当に大切にしていたはずなのに、壊れるのは簡単で、がらがらと音を立て僕らは壊れていった。
止める間もなく気づけば壊れた関係がひとつ。
完全に壊れる日をただ待つのみになっていた。

「前にも言っただろ?…‥俺はこれが嫌いだって」
不機嫌な目で食卓を見やり圭司(けいじ)は低く呟く。
「ごめん‥…次は気をつけるよ。」
「この前もそう言ってなかった?…おまえいつも口だけじゃん!」
俯き謝る楓(かえで)の前、不機嫌に眉を顰めた圭司はそのまま立ち上がると食卓に目もくれず出て行く。ばたり、と乱暴に重い扉の締まる音で圭司が部屋から外へと、出て行ったのに気付いた楓は最近頻繁になっている重い溜め息をついた。

麻生(あそう)楓。もうすぐ20歳になる学生。同居人の名は日野(ひの)圭司、二人は高校の時の同級生で友人で、そして恋人同士だ。だけど、大学入学と同時に一緒に暮らしはじめて二年。大学が違うからなのか、知らない話題が増えていき今はすれ違いが続いた結果二人の間には常に険悪なムードが流れていた。もう本当にだめなのかな、と食卓に並べられた料理を眺めながら楓は最近尽きることのない溜め息をまた零した。


ちょっとした些細なすれ違いが積もり積もった結果気づいたら取り返しのつかない場所まで来ていた。
楓はまだ圭司をそれでも好きだと言えるけれど、圭司が何を考えているのかも分からなくなっていた。お互い認め合ってこその恋愛関係が少しずつ音を立てて崩れていくのをひしひしと感じていた。
他に相手がいると気付いたのはいつだっただろうか?
すれ違い、話をしても空回りになっていた頃から圭司は頻繁に出かける様になり、楓の顔を見ると不機嫌な顔をするのが日常茶飯事になっていた。たまに帰ってきても、何だかんだと文句をつけてはまた出て行く。その繰り返しの中気づいた違和感が次第に現実味を帯びてきたのは、ある日の事だった。
お酒を飲んできたのだろう、いつになく陽気な圭司は楓を見ると途端に不機嫌な顔になり、すぐに自分の部屋へと入っていった。その残り香がお酒の匂いに混じって楓の鼻を擽る。それは甘い匂い、お酒ではなくて香水。きっと女の人もいる飲み会だったのだろうとその時は気にも止めてはいなかった、その香りは気づけば、圭司を包みこんでいた。大学に行けば女の人との出会いはそれはあるだろう。でも知り合い全てが同じ香りだなんて有り得ない。気づけば簡単だった。他に相手がいるのなら、確かにここには帰りたくないだろう。別れ話をされるのは時間の問題、そう思いながらも不機嫌な顔はそのままなのに、何も言わない圭司が怖かった。


*****


もう止めよう、そう楓が言えれば良いのに、そうすればきっと圭司は久しぶりに楓に笑顔を見せてくれるかもしれない。それが、やっと別れられる事への安堵の笑みだとしても。そう思うのに、どうしても別れの一言は楓の口から言えなかった。
まだ好きだから、ギリギリまで傍にいたくて、ただそれだけ。もう、気持ちが無いと分かっているのに、一緒に暮らしているのに、ほとんど顔も合わせない二人になっているのに、どうしても言えなかった。そんな風に悩みだした楓を知らずに圭司は相変わらず楓を見ると眉を顰め、機嫌が悪い事を隠しもしない。
そしてあの日が来た。
決定的な事実を見せつけられた、楓にとって人生最悪の日となったあの日。前触れなんて一つも無かった。
いつもと変わらない朝、天気だって曇っても雨が降ってもいない快晴。目覚めも普通。朝から珍しく何かが起こったなんて事もなく、楓はいつもと同じ学校へ行く支度をしていつもと同じ時間に部屋を出た。

いつもと同じ日常が終わりを告げ帰宅時間もいつもと同じ。何ひとつ変わらない生活時間。夕食の材料を買って、家へと戻るその道もいつもと同じ変わった所なんてひとつも無かった。
部屋の鍵を開けた瞬間違和感に気づき楓は足を止める。玄関に並んだ靴は二足、履きふるしたおかげでかなり汚れたスニーカーの横に並んだ小さな可愛らしい靴。
持っていた買い物袋を握り締めたおかげでがさり、と鳴る音に楓はそろそろと部屋の中へと入っていく。
静まり返った部屋の中は朝、この部屋を出た時と変わらない、そのはずだと辺りを見回していた楓はびくり、と肩を震わせる。
台所に置かれた洗われていない食器たち、朝は何もなかったはずの流しに置かれたのは二人分、そっと手に持った袋を置き、楓は背後へと目を向ける。
片付いた部屋は家を出た今朝と変わらないはずなのに、ソファーの上にはどう見ても、女性物だろう小さいバッグがちょこんと乗っている。まるで、ついさっきまでここにいたんだと主張しているそのバッグに楓は喉を鳴らし、圭司の部屋へと目を向けるとそろそろと近づく。部屋から微かに聞こえる笑い声に足を止めるけれど、決定的な証拠を確認しないと納得できない自分に気づき楓はそっとドアのぶへと手を伸ばした。音を立てない様にそっと開き少しだけ開いたドアの隙間へと楓は顔を寄せる。

「あっ、んっ、ふぁ・・・・・あんっ・・・・・」
いきなり漏れる甘い声に楓はびくり、と肩を震わす。ぎしり、と鳴るベッドの上、何も着ていない二人が抱き合う姿。ちゅっ、ちゅっ、と濡れた音が何をしているのか見えなくても分かる。そっと音のしない様にドアを閉めた楓は漏れそうな声を手で抑えながら自室へと向かう。
部屋へと帰りつきずるずると壁に寄りかかったまま座りこむ楓は口を抑えたまま、暫くその姿のまま座りこんでいた。
息を整え、声を出さない様にそっと手を離し、楓はやっと部屋の中、立ち上がる。
決定的な証拠を今まで見た事が無かった、だから、まだ、もう少し傍に居れたら、そう思えた。でも、もう無理だとはっきり悟った。洋服ダンスの中から大きめの旅行鞄を取り出し、なるべく音を立てない様に身の回りのモノを持てるだけ詰めていく。
帰る場所も行き先すらも見えないのに、持てるだけの荷物を持った楓はそのまま部屋を出て行く。ドアに施錠して鍵を眺めた楓は、まだ荷物があるから、と言い訳を心の中呟きながらポケットに鍵を押し込み、大きな鞄を抱え歩き出す。
圭司の居ない時を見計り少しづつ運べば良い、と思う。
階段を降りきり、もう一度だけ振り返り部屋を眺めた楓は頭を振ると歩き出す。
早急に今すぐ寝る場所を確保しないといけない、こんな場所で立ち止まる、そんな余裕は楓には残されてなんていなかった。
すっかり、薄暗くなる道を楓は肩を落としたままのろのろと進み出した。


*****


ベッドの上、何度数えても同じ乏しい有り金を見つめた楓は溜息を一つ吐き出し周りを見渡す。
あの日、といってもあれから一月経ってるのに、未だに楓は住む場所を見つけられずにネットカフェで調べた格安ホテルを点々としていた。
身の回りの簡単なものしか手元には無くて、大学にもここの所ずっと行っていない。辛うじて、バイトにだけは生きるため、ただそれだけの為に出かけているけれど、次の給料日までまだ半月もあるのに、有り金全部を出しても、この格安ホテルにすら泊まる金すらも底をついている。
頭を抱え考えても目の前にある有り金は変わらなくて、鞄にもう一度荷物を詰め込んだ楓は大きな鞄を抱え部屋を出る。
駅のロッカーに荷物を突っ込み、トイレに駆け込み、鏡で自分を一度見てから、楓はバイト先へと歩きながら、途中のコンビニで求人雑誌を購入する。
日雇いでもあればそれに縋りつきたい、その一心で求人誌を穴の開くほど眺めてから公衆電話でめぼしい場所に電話をする。携帯電話の電池は当に切れ、料金すら払えない今では電源は落としたままだった。
実家に泣きつけば事は簡単に済むかもしれないけれど、できれば大学進学にも難色を示した実家には電話すらしたくなかった。
だけど、もう大学に行ける余裕なんて楓には無かった。その日を食いつなぐだけで精一杯のホームレスに自分も成り下がるのかと思うと自嘲の笑みしか浮かばない。今日寝る場所すら楓には無かったのだから。
バイトを終え、電話で面接をしてくれるという場所を二、三個見つけた楓はもう一度駅のロッカーに戻り、一度荷物を取り出し、また荷物を入れる。
24時間しか置かせてくれないロッカーだから、こうしないと、楓は今の自分に残された唯一の私物まで失ってしまう。
住所を確かめ、歩き出した楓はどんどん薄暗い寂れた路地裏へと進む道に眉を顰めはしたけれど足を止める事はしなかった。
今日の寝る場所すら無いのだから、贅沢も選り好みもしてられなかった。
どぎつい、派手なネオンが辺りを埋める、そんな道に入り込み、楓は住所を確かめ、看板の出ている場所へと入る。
怪しい職場だろうと、日雇いで人をすんなり雇ってくれるそんな場所は思ったより見つからなかった。
求人誌に載るのだから、そこまで怪しい場所では無いだろう、そう思いながら、古ぼけたドアに書かれた社名をもう一度確かめのぶへと手をかけた。

「どんな仕事でも選り好みしないって、君学生だろ?」
「いえ、今はもう。 希望は深夜ですが、どうぞよろしくお願いします!」
「・・・・・深夜、ね。」
面接にと現れた薄汚れたどぶ色のスーツを着た肥えた男はやにで染まった黄色い歯を見せにやり、と笑みを浮かべると、「てっとり早く稼ぎたいなら、ここなんか良いと思うよ」と低い声で告げると一枚の名刺を楓に渡した。
手にした名刺をぎゅっと掴んだまま頭を下げた楓は男が紹介した場所について深く聞かなかった事を後に後悔する事になる。
その時の楓にはすぐにでも手に入る仕事があるんだとそれだけしか頭になくて、仕事の内容やその日一日の手取りはいくらなのか、そんな基本的な事すら聞かなかった。

手にした名刺の会社名が書かれている場所にあったのは、小さなお店。中に入った瞬間、楓は背中に悪寒が走るのを感じ、ぶるり、と身を震わせた。薄暗い店内は喫茶店らしき造りなのに、そこに人はいない。普通の夜の飲み屋もそこそこには薄暗かったりするけれど、それより、もっといかがわしい何かを行うための場所としか思えない。
「お待ちしてましたよ、三田村様から連絡頂いております、さぁこちらへ。」
きょろきょろ、と周りを見回していた楓は背後からの声にびくり、と肩を震わせながら後ろへとゆっくり顔を向ける。
笑みは浮かべているけれど、口調も丁寧なのに、どことなく機会じみた人形の様に表情が乏しい気がする中年の痩せた男がそこにいた。
ごくり、と息を飲み込む楓に男は笑みを浮かべたまま背を向け歩き出す。楓は戸惑いながらも歩き出すしか出来なかった。
求人誌に載っているから、普通だ、という概念はとっくに消えていくのを感じていた。
二人掛けだろうソファーの置かれた明るい部屋に通され楓はぱちぱちと瞬きを繰り返す。暗闇に慣れていた目には明るすぎるその部屋で改めて見た中年の男の顔はやっぱり、表情が欠落している様に感じ、楓は頭を下げ出て行った男の姿を眺めながら、やっと目が笑ってないんだ、と気づく。
ソファーへとそっと腰を下ろした楓は自分がとんでもない場所に入り込んだ気がしてならなかった。
日雇いですぐにお金を貰えるからこそ、ここに来たのだけど、どう考えても楓の不安は大きくなるばかりだ。
どくどく、と高鳴る胸を抑え、住む場所もお金すら無い自分を考える。生きるためならどんな事だって出来るはずだと言い聞かせても、理性がすぐに出ろ!と警告している。
今ならまだ、思い立ち上がる楓の目の前で締まっていたはずのドアが開けられた。


*****


「ようこそ、宵闇の館へ。 私が支配人の松前雄一(まつまえゆういち)です。」
にっこり、と笑みを浮かべたけれど、冷たく感じる整い過ぎた顔が浮かべるそれは楓に更なる恐怖を生み出す。高そうな黒いスーツに身を包む彼は掛けて下さい、と手で楓を座らせると前にある椅子へと優雅に座る。
「お急ぎで仕事をお探し、と聞きました。 こちらの仕事の内容は聞いていますか?」
「・・・・・いいえ」
問いかけにふるふる、と首を振り答える楓に雄一はそうですか、と呟き暫く黙り込んでから口を開く。
「気づいてますか? ここは売春宿ですよ。 まぁ簡単にいえば、そういう店です。」
「・・・・・売春って、そんな・・・・・非合法ですよね、それに・・・・・オレ、男ですよ?」
「合法か非合法かなんて関係ありませんよ。 売るから買う、買うから売るまでです。それに、男だろうと女だろうとする事は変わらない・・・・・違いますか?」
にやり、と笑みを浮かべ淡々と告げる雄一に楓はがたがた、と体が震え出すのを必死に押さえ込む為に拳を握り締めた。予感はしていた。いかがわしい店ではないかと入った瞬間から気づいていた。
自分を騙してでもここに来たのは一重にすぐに金が欲しかった、ただそれだけだった。
握り締めた拳を更に強く握り締め、喉が乾くのを感じた楓はこくり、と喉を鳴らす。
「戻られますか? 明るい世界に。」
雄一の不意の問いかけに楓は顔を上げる。窺う様に見つめるその顔には何の表情も見えてこない。楓は唇を噛み締め暫く黙り込んだまま雄一の顔を見つめていたけれど、ついにこくり、と頭を動かす。
「オレには無理です。 すいません、本当に・・・・・すいません!」
勇気が無くても、あっても無知だった楓が悪いのだ。楽して日雇いですぐに働けるそんな場所有るはず無いのだと分かっていたのに、再び俯いた楓の肩をそっと軽く叩いた雄一は「裏口からお帰りを。さぁ案内しますよ」そう告げるから楓はのろのろと立ち上がった。先に立って歩き出す雄一に無言のまま着いて行くと目の前にはドアが見えてくる。
錆びた音がするドアが開かれ、外に出ると冷たく吹く風が頬に当たる。
「・・・・・来ないで下さいね。 二度目はありませんよ?」
雄一の声に楓は深く頭を下げると薄暗い道を歩き出す。
寝る場所がなくても、有り金が底をついていても、譲れない矜持が楓にもある。越えてはいけない一線、そんな場所が。歩きながら財布を取り出そうとした楓はポケットに当たる冷たく固い感触に気づく。取り出したのは鍵。置いたままの荷物がまだあの部屋にある。だから、返せなかったあの部屋の鍵だ。あそこに置いてきたものは大きすぎて、鞄の中には入らなかった、けれど。鍵を握り締めた楓は二束三文にしかならないけれど、今すぐに入りそうなお金の元を思い出す。財布を見なくても残金は分かってる。
大学に退学届けを出せば、自由な時間が増えるから、もう少しバイトの時間を増やせば取り合えず食べるものには困らない。
楓のバイト先は食料を扱っているレストランだ。長時間働けば賄いが出る。
その間だけなら、寝る場所も24時間開いているネットカフェで何とかなるだろう。
ささやかだけど前向きな考えを胸に、楓は駅に鞄に詰め込んだ持てるだけの荷物を取りに向かう。


とっかかりから暗いですが、すいません、がんがん暗くなります。 20100129

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