中編
「ありがとうございます、わざわざすみません!」
目の前に見えるマンションを見上げながら、遙は運転席に座る英理へと頭を下げるとドアへと手をかける。
「ついでだって言っただろ?」
淡々と冷たく突き放すその声に遙はびくり、と肩を震わせるけれど、それでも笑みを崩さないままもう一度頭を下げるとドアへと手をかける。
「ねぇ、オレはどこかで会っても今度からは見ないフリをした方が良いのか?」
「え?」
「会いたくないんだろ? なら最初から他人のフリをするべき?」
淡々と問いかける口調は少しも変わらない。なのに、それに先ほどから突き放す様な冷たさを感じるのは遙の気のせいなのか分からない。一ミリだって動かない読めない横顔を眺め遙はそっと息を吸い込む。
「・・・・・お互いの為にも良いと思います、それが。 もう、行っても良いですか?」
躊躇いつつも口を開いた遙は英理の返事も聞かずにドアを開き逃げる様に車から抜け出し部屋へとそのまま歩き出す。 背後から未だに耳に響くエンジン音から今すぐにでも駆け足で部屋へと戻りたかったのに、そんな勇気は無かった。 あくまで平静、出会った事で自分が動揺しているなんて事をまだ見ているかもしれない英理にはほんの少しも気づかれたくなかった。 それが、自分から別れを切り出した遙の小さなプライドだった。 いつもの様に変わらない生活スタイルを崩さない、だから、エレベーターのボタンを押し、ゆっくり、と下降してくる箱を待つ間もただ下がる階数の表示を眺める。階段を使ってさっさと自分だけの生活空間に戻りたい、熱いシャワーを頭から浴びて、明日の事も考えずに浴びるほど酒を飲んで眠ってしまいたい。だけど、それは出来ない。 車は背後にまだあるかもしれない、エレベーターの前でぼんやり待っている遙は見られているかもしれない。 もう、関係の無い人なんだと分かってもらうには日常が変わらない事、表情一つ変化しないのは遙には無理でも、誰と会っても自分が覆る事は無いのだと理解してもらうには普通を装うのが一番で、英理と会って、自分がどんなに動揺しているかなんて事、少しも悟られたくはなかった。 こうして、ぼんやり、と立っているだけなのに心は部屋に早く戻りたいと逸る。いつもよりも、エレベーターが下降してくるのが遅い気がする、昼間だからなのか、妙に静かな玄関ロビーで一人立ち尽くしているのがバカみたいだと思う。些細な物音が聞こえる度にびくり、と震えそうになる肩を抑え込み、階段にするべきだったと後悔する遙の目の前、やっと微かなベル音と共にドアが開く。 乗り込み、部屋への階数を押しドアを閉めるボタンを押し、やっと一息つけそうな心地になりながら壁に寄り掛かった遙は締まるドアがまた開くのに、乗車する人がいたんだ、と慌てて開けるボタンへと手を伸ばしかけドアへと顔を向けたままその手を止める。 こくり、と喉を鳴らした遙はその音がどうか目の前に立つ人にまでは届かない様にとそれだけを祈った。背筋を冷たい汗が流れる不快な感覚に微かに眉を顰めたまま乗り込んで来た人を見つめる。
車内よりもっと狭いエレベーターの箱の中、互いの息遣いさえ分かる近い距離に立つ英理から遙は視線を逸らしかけぐっと思いとどまり微かに口元を歪める。
「何か、言い忘れた事でも? それとも、ここに知り合いでも?」
そんなはずは無いと思いながらも白々しく問いかける遙に答えず英理はエレベーターに乗り込むと階数を押すことなく扉を閉める。
「話ならあるよ、他人行儀な後輩に言わないといけない事がね」
「・・・・・何でしょうか?」
自分がまともに笑みを浮かべているのかも分からないまま引き攣る唇を動かす遙へと英理は一歩足を踏み込んでくる。 逃げたくても背につくのは壁で狭い箱の中逃げ道は当然無くて、遙は拳を握りしめ近づく英理をただ見上げる。
「結婚する事になったんだ、お祝いの言葉でもくれない?」
「それは、おめでとうございます! わざわざありがとうございます、どうぞお幸せになって下さい!」
何度も聞いた、風の噂。一番最初に聞いたのがいつだったのかもはっきり覚えてる。 自分から告げた別れのはずなのに、その事で浮上できずにいた自分を知らない先輩達が遊びに来たときに話していた。 あれは、そう、5月。 卒業して、いや別れてから一月が経つ頃だった。 いつまでも、引きづってる自分と違うんだと後から思い出して泣くより先に笑い出したかった。 別れに拘っていたのは自分だけで、前を向いて後ろを振り向きもしない人だったとそう思った。 あれから何度も聞いて、その度に痛んだ胸は少しづつ痛みを麻痺させていった。 今更本人から聞いても遙には何の感傷も与えない。
「・・・驚かないんだ」
「驚いて欲しかったんですか? 僕で良ければ何度でもお祝いの言葉を差し上げますよ。話はそれだけですか?」
「結婚式に出てくれって言ったら?」
「喜んで! 祝辞の言葉も後輩代表として述べさせていただきますが?」
笑みを浮かべる遙に英理は微かに眉を顰めすぐに笑みを返す。
「そう。 招待状を送るから、後輩代表の祝辞の言葉楽しみにしてるよ!」
「ありがとうございます!」
何の過去も柵も無いのだと去勢を張り笑顔を貼り付ける遙に英理は「話はそれだけ、じゃあ!」とエレベーターの開のボタンを押す。 ドアが開きすぐに背を向け出て行く後姿を遙はぼんやり、と見送る。二度と振り向くことの無い後姿を二度も見送る自分がいるなんて想像すらしていなかったのに、最近見続ける夢はこの事の暗示では無かったのかとも思う。 夢と違うのは遙の手がその背を留めようと伸びない所だけ。
*****
ドアが閉まると同時に遙は堪えきれずにずるずると背後の壁を支えに座り込む。階数ボタンを押さないとエレベーターは動かないと分かっているのに、いつまでも同じ場所に留まるなんてもしまだロビーにいたら不審がられるそう分かっているのに座り込んだ体はぴくりとも動かない。 まるで重い鉛が体中を覆いつくしているかの様に指一本ですら動かす気になれないまま遙は体を小さく丸めたまま膝の上に頭を押し付ける。 何度も考えて、選んだ道だった。 なのに、再会したそれだけで選んだ道を後悔するなんて思わなかった。 誰もが羨む結婚相手と幸福な笑みを浮かべる姿だって想像していたのに、自分が割り込む隙なんてもうどこにも無いと分かっているのに、それなのに、今すぐにでも縋り付きたくなる自分を想像して遙はふるり、と身を震わせ何とか立ち上がる。 過ぎ去った事でもう戻れない道だと分かっているからこそ後悔する自分が今すぐ声を張り上げ泣ける場所へ戻る為にやっとエレベーターの階数ボタンへと手を伸ばした。 がくん、と揺れ少しだけ気持ち悪い浮遊感のあと動き出すエレベーターの中、部屋に帰るまで持たなかった涙腺が壊れた。 ぼろぼろ、と拭っても溢れ出す涙をそのままに遙はすぐに自分の部屋の階数を告げるチャイムと同時に開いたエレベーターから飛び出し部屋の鍵を取り出そうとする。 視界が歪んで、いつもならすぐにでも取り出せる服のポケットに入れているはずの家の鍵は少し遠出をするからと、財布と共に肩から掛けていた鞄の中に入れていたのを思い出し、がさごそ、と漁る。歪む視界を何度も拭い取り出した鍵を扉へと差し込むけれど、またそこでもうまく嵌らずいつもと同じ動作のはずなのに、なぜだか時間がかかる。 何度も乱暴に拭ったせいで痛み出す目元、それなのに止まらず溢れ出し零れる涙、うまく嵌らない鍵穴、手元が狂いちゃりん、と音を立て落ちた鍵を歪んだ視界で眺めた遙はその場についに座り込む。 今更動揺して後悔する自分の為に泣きたい気持ちがあるのに、それと反するかの様に今すぐにでも笑い出したかった。 静まり返った廊下で一人座り込んだ遙はドアへと頭を押し付けぼろぼろと零れる涙をそのままに唇を噛みしめる。 人一人通らないどこかの道端なんかじゃなくて、自分の部屋の前だ。今すぐ、床に落ちた鍵を広い落ち着けば部屋の鍵はスムーズに開いて、大声を張り上げたって構わない一人の空間に入れるはずなのに、いつ人が通るかも分からない場所で声を押し殺し泣くなんて不審者みたいだと頭のどこか冷静な部分で何度も考えるのに、遙の体はぴくり、とも動かない。 早く早く、と心のどこかで逸る気持ちがあるのに、まるで別物になった様に体は動かない。 痛いぐらいに噛みしめた唇、ぼろぼろ零れる涙を拭う気力も無く、遙は涙で潤む視界の隅に銀色の鈍い光を放つ鍵を見つけ手を伸ばす。 もう少しで届く指先の隙間から鍵は別の手にするり、と持ち上げられた。 人の気配どころかすぐ側にいるのに足音にすら気づかなかった。 拾ってくれた鍵を受け取ろうとした遙は涙でぼろぼろの顔をそのまま顔を上げた自分をすぐに後悔することになる。 下で別れ、もう帰ったはずの男、那岐英理その人が鍵を手に立っていた。
「・・・・・なんで・・・・・」
座り込んだまま呆然と呟いた遙はすぐに涙でぼろぼろの顔を服の袖でごしごし、と拭う。驚いたおかげであんなに止まらなかった涙は止まり拭った目元から新たに零れる事は無かった。
「その涙は?」
座り込み立ち上がる事の無い遙の目の前で身を屈め問いかける英理に無言のまま遙は手を差し出す。手を取り起こそうとする英理から慌てて掴まれた手を撥ね退けると遙は口を開く。
「鍵を返して! それをくれるだけで良いから!」
口早に告げ、また手を差し出す遙に英理は微かに眉を顰めるけれど、それだけで、手に持ったままの鍵を差し出す掌に乗せようともしない。時間にすればきっと短いのかもしれないのに、ひたすら続く沈黙が殊更長く感じて遙は堪えきれずに再び口を開く。
「拾ってくれてありがとうございます、だからその鍵を返して下さい!」
一向に鍵を返そうともしないまま、ただ見つめてくる視線を真っ向から睨み付け口調を荒くする遙に英理はそっと息を吐くと手に持つ鍵をぎゅっと掌の中へと握りしめる。
「答えてくれたら、返してあげるよ・・・・・」
「・・・・・何をですか? 話す事なんて俺にはありませんけど・・・・・」
涙は止まってくれたけれど、押し殺していたせいなのか、少しだけ擦れ籠る声で呟く遙の目の前、英理は腰を下ろす。目を合わせる様に座り込む英理から逃れる様に遙は視線をなるべく自然に逸らそうとするけれど、同じ位置にいる人から視線を逸らすなんて無駄な努力だった。
「何で泣いてるの? もしかして、少しは振った男に未練でも抱いてくれた?」
「・・・・・何、言ってるんですか? そんなわけ無いじゃないですか、これは・・・これは、嬉し涙ですよ! 昔の男が幸せになってくれるなんて、喜ばしい事じゃないですか、俺と別れたおかげで幸せに巡り会えたなんて幸福を呼んだ自分に喜んで感動したから、ちょっと度が過ぎただけです」
上手く笑えてるのか自身は無かった。だけど、すらすらと出てくる白々しい言葉を口に出しながら、遙は何度も笑えと自分に言い聞かせる。あの別れは正しい事なのだと結婚の噂を聞いてから何度も思っていたそのままに、どこにそんな言葉が眠っていたんだと言えるほどすらすらと出る言葉を止めもしなかった。
「鍵、返してくれませんか?」
再度手を伸ばし、告げる遙に英理は手に持ったままの鍵へと視線を落とす。
「ねぇ、聞いても良い? 俺と居た頃、遙は不幸だったわけ?」
掌の鍵を弄びながら問いかける英理に遙は口元が引き攣るのが分かり、思わず唇を噛みしめる。
「今更関係ないじゃないですか、昔の話が聞きたくてわざわざ追いかけて来たんですか?」
「過去の話なら言えるだろ? 突然振られた俺の気持ちとか考えた事ある?」
動揺を隠して一気に吐き出す様に告げる遙に英理はすぐに言い返す。言葉に詰まりながら必死に言い訳を考える遙の目の前、英理は立ち上がる。
「そんなに言葉に詰まる様な事聞いた? 確かに今更だけど、信じていた相手に裏切られた人間って同じ事考えないか? 返して欲しいなら答えてよ、俺はいつから遙に騙されてたわけ?」
指で摘まんだ鍵を目の前にちらつかせ問いかける英理を遙はぼんやり、と見上げる。確かに自分から別れを告げたけれど、裏切者扱いされていたとは微塵も考えなかった遙は英理の再会してからの態度をやっと理解した。
*****
「・・・・・最初から、付き合う前から決めてました。別れは卒業の時だと、区切りが良いと」
今自分が笑っているのか遙には分からなかった。だけど、きっと笑っているはずだと信じて告げた自分の言葉に驚く英理を見上げ言葉を繋げる為に口を開く。
「どんなに今好きでも、社会と言う名の世間に出れば学校という枠の中より世界は広がる。振られるなら振る方がよっぽど楽じゃないですか? 別れを切り出される前に切り出した方が楽になれる。騙したつもりは無かったんですけど、新たな素晴らしい出会いがあったのだから、これで良かったと思いますけど?」
別れを切り出したのは自分なのに、結婚の話を聞いた時はさすがにショックだった。勝手な別れを切り出した相手が別の人を選ぶのは当たり前だと何度も言い聞かせて、こうなる事を望んだのも選んだのも自分なんだと。目の前でその手を離されるよりは、もう好きじゃないと面と向かって言われるよりはましだと。
「理由を告げたら返してくれるんですよね? 鍵、返してくれませんか?」
英理の目の前に手を差し出し遙は笑みを向ける。伝えた言葉が思っていたよりも衝撃だったのか、何の反応も返さない英理の指に摘ままれたままの鍵へと目を向けると遙は指を伸ばす。 伸ばした指先がもう少しで鍵へと触れそうな次の瞬間、目の前で鍵は再び掌の中へと握りこまれる。
「那岐、先輩?」
「結婚式、呼ばないから来ないでよ、祝電もいらない。 どこかで会っても知り合いだなんて口にも出さないで良いから、できれば二度と俺の前に現れないでくれると嬉しい・・・・・人の気持ちを弄んだ奴はこの世でとことん不幸になって欲しいと思うのは俺だけかな?」
最後の言葉を顔を覗き込む様に告げた英理は遙の片手を取ると掌の鍵をその手の中へと落とすとそのままくるり、と背を向け歩き出す。静かな廊下にその靴音が妙に響くのを感じながら遙は遠ざかるその背を見送りかけ掌の冷たい感触を握りしめる。
「待って下さい! お祝いの気持ちぐらいならオレにもあるんですけど、後輩として・・・・・それだけは」
エレベーターへの前にいた英理の背に走り寄り告げた遙の目の前、英理は顔だけちらり、と遙へと向けてくる。
「・・・・・顔も見たくない、二度とその声も名前も聞きたくない相手からお祝いなんて貰いたくもないんだけど、後輩の縁なんてとっくに切れてるだろ?」
「あの、でも・・・・・」
「いい加減にしてくれよ! 俺はもう、お前とは関わりたくないんだよ!」
苛立ちを隠す事なくきっぱり、と告げてくる英理に遙はぐっ、と言葉に詰まり黙り込む。そんな遙から英理はすぐに視線を外すとエレベーターの方へと再び顔を向ける。二度と振り向きたくないのだと、雰囲気で拒む背中をじっと眺めた遙は困った様に言葉を探す。 タイミングが良いのか悪いのか、程なくしてエレベーターの扉は開き、英理は背後の視線に気づいているのだろうけれど、一切を拒み乗り込んでいく。 乗り込んですぐに開閉ボタンを押したのか締まるドアを呆然と見る遙はただ深く頭を下げる。
「さようなら、先輩。 僕は、あなたの事が・・・・・」
言葉が途切れる様に完全に閉まるドアの音に遙は顔を上げるとただ苦笑を浮かべる。最後の最後に自分が何を口に出そうとしたのかを思うと苦笑しか浮かばない。幸せな結婚式に参加できれば、自分の選択が正しかったのだと証明できる。ただそれだけの自分勝手な理由で参加はしたかった。ただの後輩として先輩の門出を祝う、そんな最もらしい理由を並べて、本当はこの道が正しいのだと自分が認めたかったから。
「あなたの事が・・・・・好き、でした」
二度と本人の前ではもちろん、他の誰かの前でも口にしないと別れを切り出しとあの時から決めていたはずの一言を吐き出した遙はくるり、とエレーベーターへと背を向け歩き出す。
結婚式に参加は出来なくてもきっと噂は耳に届くはずだから、想像だけでも十分に証明はできるだろうと思う。 誰もが認める幸せが訪れるのを心の底から祈る事だけは許してもらえるだろうか、と少し考えた遙は辿りついた部屋の前に立つと握りしめたままの鍵を今度は迷う事なく鍵穴へと差し込んだ。
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