後編
がちゃり、と開く音に鍵を抜き取り遙はドアのぶへと手をかける。 部屋に入ってしまえば、そこは遙だけの世界だ。泣こうが、喚こうが、一人きり、思考の海にどっぷり浸かっても誰にも文句を言われない遙の楽園だ。 学生の一人暮らしだから、親の脛をしっかり齧っているのは自覚している、だけど、今日だけは誰にも邪魔されない部屋が有り難く感じる。 開いたドアの隙間から嗅ぎ慣れた部屋の匂いが鼻孔を擽り、微かな溜息と共に部屋へと滑り込む。 ドアを閉めれば隔絶された遙の世界、そのはずだったのに、隙間からいきなり伸びた手に遙は思わず顔を上げる。
「・・・・・何で?」
顔も見たくない、声も聞きたくないと遙を拒絶したまま確かに去ったはずの英理が立っていた。 伸ばした手で扉を抑え入り込んでくる英理に遙は呆然としていた自分に気づき、玄関の真正面に立つ。
「帰ったはずなのに、なんでいるんですか?」
「いたら悪い?」
「話すことはもう、無いはずです」
「最後の・・・捨て台詞の様に言い逃げなんてすんなよ!」
言われた言葉に目を見開き逃げ道を探すように辺りを見回し始める遙の腕を掴んだ英理はそのまま顔を近づけてくる。 拒むのが一瞬だけ遅れたそれだけで顔を近づけてきた英理が奪う様に唇を押し付けてくるのを防げたのか遙には分からない。 息さえ奪うそれに抵抗を試みるけれど、がっしりと腕を掴まれ抱え込まれる様にされるキスというより口づけと言った方がしっくりくるそれに遙は飲み込まれそうな自分を感じる。 嗅ぎ慣れた匂い、懐かしく愛おしくも感じる自分から手を離した温もり。取り戻せるはずも無いその温もりに匂いに酔いそうになる遙は頭を振り、持てる力の全てで英理を振り払う。
「帰って下さい! お互いに用は無いはずです!!」
距離を取ろうと後ずさりながら叫ぶ遙の目の前、英理は濡れた唇を手の甲で拭うとまだ開いていた扉をばたり、と閉める。がちゃん、と音がしたのに、ドアの鍵を閉めたのに気づき、顔を上げる遙に英理は微かに笑みを向けてくる。
「逃げれば? この部屋の中のどこにでも」
「・・・・・何が、したいんですか?」
青ざめた顔でぼんやり、と呟く遙に英理は更に笑みを深くしたまま靴を脱ぎ近づいてくる。
「俺にも良く分からないんだけど、今逃したら、二度と聞けなくなりそうだから」
立ち尽くしたままの遙に近づくとその顔に手を伸ばし顔を上げさせると目線を合わせたまま英理は口を開く。
「何を?」
「・・・・・何をだろう? 嫌なら、もっと激しく抵抗しないと」
いつの間にか笑みを浮かべていたはずが、少し困った顔に変わった英理は上手く状況を理解できないのか戸惑いの視線を向ける遙へと顔を近づけてくる。
「嫌いだというなら、それを貫いてよ、じゃないと・・・俺の思いはちっとも消化できない」
耳元でそう囁くとすぐに唇へと何度も触れるだけのキスを英理は繰り返してくる。今度は腕を掴まれているわけじゃない、顔を上げさせた手も、肩にそっと置かれているそれだけで、遙が抵抗すればすぐにでも放される、そんな距離を保っている。 抵抗する、それだけで遙の決めた道が正しい道だと証明できる未来が築けるそのはずなのに、上げた手は躊躇いながらも力なくゆるゆると、英理の背へと伸ばされる。
*****
くちゅ、と粘着質な音を出し離れる唇、荒く息を吐出しながら互いを声なく見つめどちらからともなく再びキスを繰り返す。触れては離れるそれだけの軽いキスから互いを貪る濃厚な舌まで絡めるキスへと変わるのに時間はかからず、濡れた音が部屋中に響き渡る。 ただ互いを支えるかの様に伸ばされていた腕は探る様に互いの背を行き来しだし、互いの服を競う様に脱がせ合う。立ったままだったはずが、床の上座り込み、荒い息を繰り返しながら互いを貪る行為へと移り変わるその間、目を合わせた事は何度も合ったのにすぐに唇を触れ合わせはじめ、そこに会話はひとつも無かった。 言葉よりも何よりも互いの温もりを確かめるのが二人にとって何よりの最重要事項で、後の事は考える事すら出来ずにいた。服を脱がし現れた素肌に競り合う様に手を伸ばし、唇で触れ舌を伸ばし、温もりを確かめ合う様に探り合う。まるで獣の様に目の前の欲望に忠実な二匹の獣は生まれたままの姿になるまでそんなに時間はかからなかった。
「・・・・・遙? 良い?」
擦れた問いかけに遙は重い体を動かそうとして目の前にある英理の顔に瞬きを繰り返す。 床の上にいたはずなのに、いつの間にか寝かされた場所はソファーの上、お互いに一矢も纏わないまま肌はどこもかしこも少しづつ汗ばんでいて、触れ合う場所がとても多い。
「遙?」
問いかけの意味が分からずぼんやりしたままの遙の目の前で英理は微かに腰を動かす。途端に状況と問いかけの理由に気づいたのか、遙は顔を赤く染めたまま何度もこくこく、と頭を動かす。押し当てられたのは見なくても分かる慣れ親しんだ英理の欲望の証。とっくにどろどろに溶かされた遙の秘孔は躊躇う事なくそれを飲み込むべく収縮を繰り返しているのもこれまた見なくても分かる慣れた感覚。ほんの数か月前まで、自ら欲していたそれを拒む理由は今はどこにも無い。
「・・・・・英理、さん・・・・・好、き・・・・・」
拒む理由すら自らの手で壊してしまった遙はずぶずぶ、と濡れた音を響かせながら入ってくる熱い肉を深く受け入れる体制を取りながら英理へと手を伸ばす。肩へと縋り付き呟く遙の背を抱きしめ返した英理はその呟きに答える様に一気に身を進め、奥へと押し入りながらキスを繰り返す。
「・・・・・あっ、あ、あ、ふっぁ・・・・・んっ、ん!」
「・・・・・ん・・・きっつ・・・・・」
「あんっ、ん、んっ・・・・・英理、さん・・・・・」
鼻にかかる籠った喘ぎ声を堪えようとしながらも零す遙を抱きしめたまま英理は腰を動かしだす。緩やかに、優しく、と心掛けてはいても、口に出して言えないけれど久しぶりの女性器とは違う締め付け具合に英理は微かに眉を顰める。喘ぎながらも縋り付く遙の姿に、堪えようとは思っても逸る気持ちも抑えられない。 結果、喘ぐ遙の口を塞ぐ様に何度もキスをしながら、腰を動かす英理は緩やかに、優しくなんて言葉とは裏腹な激しい突き上げを繰り返す。 ぎゅうぎゅうと締め付けたかと思えば、時にはもっと奥へと誘導する遙の奥に熱い欲望の証を吐き出すその時まで英理の腰は止まる事はなく、繋がる箇所から響く粘着質な水音が部屋中を覆い尽くした。 熱を吐出し、それでも繋がったまま放すことをしないまま英理は遙へとキスを続ける。 少し、体の向きを変えるそれだけで、零れ落ちる水音、一向に収まる気配のない熱に浮かされるまま遙はすぐにまた激しい行為が始まるのを予感しながらも英理へと縋り付いた。
きしきし、と軋むベッドの上、これが何度目なのか数える事すら放棄した熱棒を体の奥に押し込まれはぁはぁ、と喘ぐ遙は英理の腹に手をつき、ゆるゆる、と腰を動かす。 動かす度に響く水音は英理の掌に包まれた己自身からなのか、繋がる箇所からなのか、はたまた両方からなのか、それとも何度も触れ合う舌を絡めあうキスのせいなのかも考えられない。その全部から漏れ響いている音なのだと分かるのは冷静でいられる他人だけで、その音さえ気にしないまま互いの熱を冷ます事しか考えられない二人はこれが何度目なのかすら分からない行為に没頭する。
「・・・・・遙、もう少し、深く入るだろ?」
「んっ、やぁ、だめっ・・・・・深いのは・・・・・」
「どうして? 俺はもう少し奥が良い!」
緩やかに、浅く動く遙に英理は耐えられない様に腰を動かす。少し突き上げる、それだけで、奥に当たり、遙は唇を噛みしめる。
「堪えてないで、声、聴かせて・・・・・」
耳元へと囁くと同時に舌を耳たぶに這わせる英理に遙は体を震わせ頭を緩く振る。
「・・・・・あんっ、だめ、だめ・・・・・あ、んんっ!」
「どうして? ここ好きだろ?」
主導権を取り返す様に腰を動かしながら問いかける英理に遙は答える間もなく喘ぎだす。そんな遙の頭をゆっくり、と撫でながら、英理は器用に上と下を入れ替え、縋り付く遙を抱きしめ直すと抜き差しをはじめる。ぐちゅぐちゅ、と響く粘着質な音が激しくなり、軋むベッドの音も一段と大きくなるのと比例して喘ぐ遙の声も堪えてはいるのに、一度吐き出すとますます大きくなっていく。 何度繋がってもまるで終わりが見えてこない、互いに汗だらけでどこもかしこも濡れていて、縋り付く手さえ滑り落ちる、キスをしている合間にも額から零れる英理の汗がぽたぽた、と遙の頬へと流れ落ち、遙の髪は汗で枕まで染み透るほどに濡れている。乾いている箇所を探すのが難しいほどどろどろに溶けあっているのにそれでも足りない熱に浮かされる様に二人はただ互いの欲へと溺れていった。
*****
ぴちゃん、ぴちゃん、と規則正しく落ちる雫を眺めていた遙は包み込まれる温もりに目線を上げる。
「平気?」
少し擦れた低い声に頷くと遙は背後の温もりへと体を寄せる。 気づいたのは眩しすぎる日の光。カーテンすら閉めていなかった窓から入り込む日の光に目を開いた遙は湿ったシーツの不快感に眉を顰めた後、しっかりと自分を抱き寄せ眠る英理の吐息に身を竦ませる。 いつ眠ったのかも分からない、そもそも、寝室に入った時の記憶がうろ覚えで、遙は一人身を竦ませたまま顔を赤く染める。 それから、気持ちよさそうに眠る英理を起こさない様に起きようとはしてみたけれど、体は久しぶりの行為に悲鳴を上げていて、とても起き上がる事すら出来ずに仕方なく隣りで眠る英理を起こすしかなかった。 英理は遙を最初に浴室へと運び込むと濡れたシーツやその他諸々を抱えて浴室の目の前の洗濯機へと落とし込み、身動き一つ満足に取れない遙の体を丁寧に洗い、再び浴槽の中へと戻し、自分もさっさと髪と体を洗い浴槽へと入り込んでくる。男二人で入るにはちょっと狭いユニットバスの中、遙を抱え込み英理はお湯の中、ふーっ、と息を吐き出す。
「・・・あの、結婚の話・・・」
「断るよ。 こんな気持ちじゃ無理だし」
肩に当たる髪の毛に首を竦めながら呟く遙に英理は顔を上げると首筋へと唇を押し付けながら告げる。
「・・・・・ごめんなさい」
ぼそり、と呟く遙は自分で望んで別れを切り出したはずの選択を自分から壊した事に申し訳ない気持ちが消えないまま溜まるお湯へと目を向けながら呟く。
「そこで謝るな! それより、俺を大事にしてくれれば良いから」
背後から抱きしめたまま頬へと唇を寄せる英理に遙はこくり、と頷き顔を後ろへと向ける。
「・・・・・好き、英理さん」
昨日から今日までどろどろに体が溶け合う程繋がりあった相手に告げる告白にしてはどうも拙い気がするけれど、顔を真っ赤に染めたまま呟く遙に英理は笑みを向けると答えるかわりにキスを贈る。そっと触れ合うだけのキスを何度も繰り返し、体が熱くなる手前でやっと唇を離した二人は顔を見合わせ困った様な笑みをどちらからともなく向ける。 きっと暫くはこの調子になりそうだと、互いに考えながらも、それは決して嫌な事ではないので、何も言わずに笑みを交わし合った。
それから遙の生活が変わったのかと言われると実はそうでもない。 学生なのは変わらないし、たまにバイトに出かけ、家と学校を往復するそれも変わらない。気の合った仲間とたまに飲み会をして、騒いだ後家に帰り眠る。そんな平凡な日常を繰り返す。
「なぁ、知ってる? 那岐、仕事辞めたって噂、聞いてる?」
「えーっ? 那岐先輩に限って、何かトラブルですか?」
「玉の輿の婚約者、断ったらしいぜ!」
「もったいない!! でも、それだけで、仕事まで辞めるんですか?」
「ほら、取引先のご令嬢だったらしいから、居辛かったんじゃねーの?」
サークルの飲み会、頻繁にサークルに顔を出す先輩の一人の噂話に周りの仲間が騒ぎ出すのと同じ様に驚きながら遙は自分のコップへと口をつける。飲みもそこそこに話に盛り上がっている集団に付き合いつつも自分のペースを崩さない遙はいつもの事なので誰も驚かない。 誰もが考える事は同じなのか、貴重な玉の輿相手と職を失った英理の事を盛んに「もったいない」と呟くのを聞きながら、遙は昨夜の事をぼんやり、と思い出した。 メールは頻繁にする様になったけれど、会うのは実はあれ以来振りの英理は「片付いたから、その話は二度とするなよ」と遙へと告げた。 仕事を辞めたのは別に婚約を破棄したからじゃないとは言っていたけれど、取引先のご令嬢なら少しは関係があるのかもしれない、と思うけれど、遙は英理の言葉に従い二度とその件を口に出すことはしない。 全くの無関係とは言えないけれど、罪悪感も少しはあるけれど、自分の選んだ道を二度と後悔はしたくない。 そう考えを新たに持ち直したその時遙の携帯がピピピ、と音を立てテーブルの上で揺れる。 手に取りメールだと分かりフラップを開いた遙は口元が緩むのをごまかし、そっと飲み会を抜け出す。
『部屋で待ってるから、早くおいで 英理』
絵文字すら使わないたった一行のメールだけで心が弾む。弾みそうに急く足取りも、一人きりで歩く夜道の中緩みそうになる顔をも必死で隠し遙は英理の待つ部屋へと向かう。一度手放して、何度も夢にまで現れたあの別れの場面はあの日から夢には見ない。 暖かい部屋で「おかえり」と抱きしめてくれる温もりに早く辿りつきたい遙の足取りは少しづつ早くなる。
それが正しいと言える道がどこにあるのか今の遙には分からない。正しい、と信じていた道を自ら壊して取り戻した温もりに縋り付く、あの小さな部屋でしか出来ないそれが正しいと言えるのかも分からない。 それでも、今は離れたくないし、放したくないのだとそれだけは頭にある。 好きな人の幸せを願うのなら、少しでも笑顔でいてくれる世界を作り出せれば良い、ほんの少しだけ前向きになった遙の答えを口に出したらきっと今の英理なら微笑みをくれる。そして撫でて、抱きしめてくれる。早まる足は歩くというより既に走り出している。 一歩ずつ大好きな人へと向かう背中は喜びに満ち溢れていた。
- end -
2011-10-25
novel top back
|