前編
本当はこんな終わりにだけはしたくなかった。 ずっと、残っているし、きっと忘れない。 初めて恋した事、初めて他人と触れ合った事、思い出に残せる程多くはなかったけれど、二人で出かけた事。 だけど、もう潮時だと分かっているから、遠ざかる背中に伸ばしかけた手を握り締め、宮永遙(みやながはるか)は背を向ける。 それが、最後に自分の出来る事だから。 引き際は心得ている、そうじゃないと、初めて恋したあの人は遙を嫌ってしまうだろうから。 最後まで聞きわけの良い人でいたかったから。 良い人のまま、記憶に残りたかった。
「好きなんです、オレ、先輩が!」 上目使いで見上げてくる自分よりも頭一つ分低い彼の顔を見ていた遙はそっと瞳を細める。過去の自分を思い出しかけ緩く頭を振った遙は不安そうに見上げる視線に顔を向け微かに笑みを向ける。
「ごめん、今はそんな気になれないから・・・・・本当にごめん!」
「あの、良いんです・・・伝えたかっただけだから、こちらこそ、すみませんでした!!」
困った様に泣きそうな瞳で無理に笑みを浮かべた彼は遙の姿にふるふると頭を振り、すぐに背を向けると走り去る。その小さくなる背を見送り遙は微かに息を吐くと歩き出す。 告白に勇気がいる事は遙だって知っている。それがダメになったあの子のその後の行動だって理解できる、だけど答える事は出来ない。同じ過ちは繰り返さない、繰り返してはいけないとその度に何度も言い聞かせてきたのだから。 同じ立場に立った事があるから、今より背も低くて、今よりも成長してなかった自分を思い出しかけ遙は頭を軽く振る。 閉じ込めていた記憶を何度も取り出しかける今日は厄日だと微かに思い、溜息をまた零した。
からんからん、とゆったり、と響くドアにつけられたベルの音から一歩遅れて足を踏み出した遙はすぐに目当ての人を見つける。
「すいません、待たせましたか?」
「・・・いや、用事良いのか? 悪いな、いきなり呼び出して」
「大丈夫です。 先輩いつ日本に? 卒論出したその足で外国のどこだかに消えたって聞いてますよ」
「おいっ、消えたって酷いな。 卒業式にオレは居ただろうが!」
再会は一年振りだけど、ブランクを感じさせないほど相変わらずフレンドリーな男に遙はただ笑みを浮かべる。一年経てば、いっぱしの社会人になってるはずなのに、相変わらず昔と変わらない姿、昔よりも更に野性味溢れる男へと変わった高校、大学と縁あって同じ所へと通った伊波昇(いなみのぼる)に内心だから、と妙に過去を思い出す理由を今更思い出した。
「先輩がいきなり電話なんかしてきたから、今日は昔を良く思い出します」
うんざり、と肩を竦め告げる遙に昇はこの一年で本格的に伸ばしているのか、はたまた切るのが面倒なのか分からない顎の髭を居心地悪そうに触る。
「悪かったな、昔の知り合いで連絡まともにとってるのはもう、遙だけだからな。 他のは仕事とかで色々忙しいらしいしな・・・」
「・・・・・僕で協力できるなら、あの頃の仲間で飲み会でも開きますか? 連絡取れたらですけど」
「いや、良いよ。 遙の姿が見たかっただけだし、元気そうで安心した!」
にっこり、ではなくにかっと笑みを浮かべる昇に遙は一瞬目を見開きすぐに笑みを浮かべる。
「僕は平気ですよ、その様子だととんぼ返りですか?」
「そうか、あっと、行くのは三日後かな? 当分日本の地は踏めそうにない予定があってな」
「そうですか、じゃあ、僕だけじゃ不満だろうけど、このまま飲みに行きますか?」
「この格好で行ける所なら大歓迎だぞ?」
テーブルから少し離れ着ている服を見せる昇に遙は笑みを返す。
「僕だって似たような服です、大丈夫、僕が行けるのは居酒屋ぐらいです、洒落た店には縁がないですから!」
昇へと自分の着ているパーカーとジーンズを見せながら告げる遙は時計を見ると立ち上がる。
「今も昔も学生の僕の行きつけはあそこだけです!」
告げる遙に昇は笑みを返すと立ち上がる。相変わらず立ち上がると威圧感の増す昇に内心苦笑を漏らしながらも遙はきっと何年先に会っても変わらないだろう昇を促し居酒屋へと向かい歩き出した。
*****
一年前は頻繁に通った居酒屋に場所を移した遙は昇の口から出される外国暮らしの様子に驚きそして喜んだ。単身外国へと旅立った昇は発展途上国と言われる国々をカメラ片手に巡っている。学生時代からカメラ好きだったけれど、まさか外国までカメラを抱えていき、それを職業にするなんて事、当時の仲間は誰も思わなかった。頭の片隅もしかしたら、そんな考えが掠めた人もいるだろうけれど、行動力だけはある昇の未来は常に未知の世界だった。
「そういえば、他のやつで連絡取ってるのいるのか?」
「・・・・・他の先輩も社会人ですからね、だけど、萩さんや勝山さんはたまに来ますね。 最近来たのが山城さんかな?」
遙が挙げる名前におおっ、と頷き昇はちらり、と遙へと視線を向ける。
「何ですか?」
「・・・・・那岐(なぎ)は来てる?」
「いえ、那岐さんの姿は卒業以来お見かけしてないですよ! 仕事、忙しいんじゃないですか?」
昇の問いかけに一瞬顔色を変えるけれど遙は笑みを向け淡々と答える。事実、昇の挙げた名前の彼とは卒業式が最後でそれ以降会った事もなかった。
「何で、ですか?」
「あの、噂でさ・・・那岐が結婚するって聞いて、知ってるのかなって・・・」
言いづらそうに告げる昇の眉が困った様に下がるのを眺めながら遙は笑みを崩さない。
「知ってますよ、その噂。 玉の輿に乗ったって、仕事先の社長令嬢に見初められたらしくて、凄いですよね」
「遙?」
「先輩、まさかその噂を聞いたから帰国したなんて事ないですよね? 僕は平気ですよ、もう、過去の人が何をしても関係ないですから」
くすくす、と笑い声まで上げる遙に昇はそっか、と微かに呟くけれど、その声は聞こえないふりをした。もう、大丈夫だと何度も言い聞かせて名前を聞いても動揺なんてしないと思っていたのに、未だに親しい人から聞く名前には敏感に反応する自分を消したくて遙はそれから先も笑みを崩そうとはしなかった。
「見送りに行きますから、連絡必ず下さいね!」
去り際に何度も告げる遙に昇は何度も頷き、予め決めていたホテルへと帰る為に歩き出す。その背を見送り遙は自宅へと続く道を足早に歩き出した。 懐かしい人との再会は遙に余計な記憶まで思い起こさせたけれど、しっかりそれが過去の事だと言える自分になれた事が少しだけ誇らしかった。 季節が移り替わる様に気持ちもすっきりと変える事ができたらどんなに楽だろうと思う。都会で見上げる夜空には星の姿はあまり見えないけれど、星の数ほど恋もある昔から良くそう言われているのを遙も聞いた事がある。また新しい恋ができるその時まで眠っている自分の心が浮足立つそんな恋を見つけて先輩に自慢できれば良いと思った。
恋人として付き合うより先にずっと傍にいた人だった。隣りにいるのが当たり前でいつの間にか恋へと変わっていたけれど、それは自分だけで、きっと向こうは違ってた。 恋だと告げる自分に流され、恋だと勘違いしてくれたその人に自分はきっと残酷な事をした。 自分にとっては最高だと思える出来事全てが封印したい忌まわしい出来事になってしまう、その前に勘違いだと気づかれるその前に自分から告げた別れ。 それが最善で、それしか道が無かった。 何度だって思い出す別れを告げた自分を見るあの人の顔。信じられない様に目を見開いた彼の中に少しの安堵を見つけた気がした。 嫌いになったんじゃない、と告げる事も出来たけれど、これからは友人として、そんな事も言えたけれど、それは自分が無理だった。 これが最高の幸せだと笑うあの人を見たくなかった。 何度も縋りたくなる手を抑え去っていく背を見送った。今でも、何度でも思い出す痛い記憶、箱にどんなにうまく詰め込んでも思い出すと最後に別れの場面へと変わる、去っていく背中を何も出来ずに立ち尽くし見送る自分、いつだってそこで夢は覚める。 がばり、と布団を蹴り上げる様に起きだした遙は汗の浮き出す額を手で拭うと、張り付いていた髪の毛を掻き上げる。ぽたぽた、と布団に落ちる液体を見つめる視界が歪むのに必死で目元も擦る。
「僕は平気、大丈夫・・・関係ない・・・」
何度も言い聞かせてきた言葉を呟き遙は溜息を零す。新しい恋を見つけるどころか過去の恋に未だに囚われてる自分を誰にも知られたくなかった。楽になれる方法なんて知らない、だけど手の届かない人だと自分の目で確認する事は出来る。早くその日が来てほしい、まだ薄暗い外をちらり、と窓越しに眺めた遙はそっと思う。
「どうぞ、お元気で・・・次はいきなりは止めて下さいね」
「分かってるって、お前も、次に会うときは良いヤツでも紹介してくれよな?」
「先輩もでしょうが、僕より出会いの少ない人が何を言ってるんですか?」
全くだ、と肩を揺らし笑う昇を見上げ遙は笑みを深める。外国を渡り歩いてるせいなのか随分小さな手提げかばんを持ち直した昇はチケット片手に搭乗口へと歩いて行く。
「お別れの前にキスして!」
「・・・ここで?」
「だって、暫く会えないのに、昨日のあれで終わりなんて寂しいよ!」
強請る甘い声に戸惑いを混ぜた呟く声に背を向きかけた搭乗口へと遙は思わず顔を向ける。 聞き覚えのある声がした。自分がその声を間違うはずが無くて、視線だけで辺りを見回した遙はある一点で目を止める。
「帰ってくるまでおあずけにしといてよ、その方が再会した時の感動は増すだろ?」
「・・・私は良いのに!」
「ほら、行かないとだめだろ? 早く帰って来るのを待ってるよ!」
服の端っこを掴み駄々を捏ねる彼女を宥める様にその背を押した彼は渋々と歩き出す彼女に手を振る。恋人同士が遠距離恋愛になるのだろうと誰もが分かるその場面の中にいる彼を見た瞬間遙は思わず大きく息を吸い込む。 消えていく彼女を見送り振り向く彼から慌てて視線を逸らした遙は後ろを二度と振り返る事なく足早に歩き出す。まだまともに顔を見れる勇気も図太さも持ち合わせていなかった。 何度も思い出す、何度閉じ込めても記憶の中鮮やかに浮かぶ出会いから別れの全て。何度も考えて出した結論は間違ってはいないはずなのに、消えない後悔が常に纏う。 逃げ出す様に歩き出しながら、遙は何度も言い聞かす。 大丈夫、きっと気づかれていない、大丈夫 籠った空気から脱出出来た爽快な気分で外の空気を吸い込む、そんな人を装い大きく息を吐き出した遙は思わず胸元を握りしめる。 昇の乗った飛行機を見送ろうとか思っていたのにその計画も断念するしか無い。もう一度中に足を踏み入れる気分じゃない。こんな時でも無いと来ないから、中もじっくり眺めてみたかったのに計画は全ておじゃんだ。計画全てを断念しても、会うよりはましだと思う。 噂は本当の事だったらしい、と微かに口元に笑みを浮かべた遙は空を見上げる。 きっと、もうすぐ、遙の願いも叶うはずだと思うと笑みは深くなる。
*****
迷いを吹っ切る様に頭を振り歩き出しかけた遙はいきなり腕を掴まれびくり、と肩を震わせる。
「久々に、会ったのに・・・・・挨拶一つなしなんて、酷くないか?」
微かに荒げた息の下、擦れた低い声で呟く背後から聞こえる声に遙はそろそろ、と後ろを振り返る。
「・・・・・あの、お久しぶりです、いらしたんですね・・・」
自分はちゃんと笑えているのか分からない。それでも精一杯口元を緩め笑みを浮かべ告げる遙の声にその人はただ眉を顰める。 掴まれた腕から伝わる熱が風向きのせいで香る彼の匂い、全てが懐かしくて厭わしい。それでも必死に平静を装う遙の目の前に立つその人は一年振りだというのに久しぶりな気分もしなかった。 那岐英理(なぎえいり)、忘れたくて忘れられない元恋人といっても良いだろう人。
「いらした? わざとらしく逃げたのに?」
「そんな事は・・・本当に知らなかったので、あの、離してくれませんか?」
掴まれる腕を微かに持ち上げ呟く遙に英理は更に眉を顰め、遙が向かいたい方向とは逆に彼を引きづる様に歩き出す。
「あの、先輩・・・・・離してくれませんか? 僕は帰るんですけど!!」
歩くのを拒む様に掴まれる腕を引こうとする遙を英理はそれでも強引に引きづる。
「先輩?」
「・・・帰る場所は離れてないだろ? ついでだから送ってやるよ!」
「良いです! 僕、この後用がありますので、迷惑だから、あの・・・」
「これで避けてないって? 一緒にいるのも嫌な相手って事?」
「そんな、事は・・・」
ちらり、と視線を向け告げる英理に遙は視線を困った様に彷徨わせる。そんな彼の腕を離すことなく英理は再び歩き出す。連れて来られた場所は駐車場で、英理は一台の車の前に止まると扉の鍵を開け戸惑ったままの遙を強引に助手席へと乗せる。
「・・・・・あの・・・・・なんか、すみません・・・」
「別に、ついでだって言ってるだろ? で、家じゃなくてどこに送れば良い?」
「え?」
「用があるんだろ? 彼女もしくは彼氏の所?」
「あの・・・家、で良いです」
淡々と問いかけるその声に遙の声はどんどん小さくなる。そう、と小さな呟きと同時に車のエンジンがかかり、ゆっくりと動き出した車内にはその後、重苦しい沈黙だけが支配していた。
- continue -
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