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お茶の点前なんて知らない悠里は回されたお茶におそるおそる口をつけてから、微かに眉を顰める。
懐紙で飲んだ場所を拭き取り隣りに座る夏へと渡してから何度も口の中に溜め込んだ唾液をゆっくり、と飲み込む。
ペットボトルのお茶もしくはパックのお茶、そして高々高級と言えば語弊があるだろう、急須に入れられたお茶としか縁の無い悠里にはひたすら苦くて濃かった。口についてる泡もいただけない。
こうして、高級、高度なお茶の席で飲むお茶とは縁の無かった悠里には自分が庶民だと深く実感する良い経験になった。
ちなみに夏は口に含んだ瞬間周りに分かる程眉を顰め、「苦い!」と叫んだ兵で、一気に周りの笑いを誘う。点てた馨は苦笑を浮かべただけだったけれど、くすくす笑いは消えずに居心地は悪くなる一方で悠里と夏は早々に場を辞した。
ぷはーっ、と大きく息を吐く夏の横、悠里は手にしたコップをずずっ、と口に含む。
冷たい液体が喉を通り、未だに残っている気がした苦味を炭酸の甘さが消していく気がする。これは溜息を吐きたくなるのも分かる気がする、と思いながら悠里は隣りへと視線を向ける。
「どうする? 教室に帰る?」
「・・・・・そうだな、もうそろそろ客も引いていくだろうし、良いんじゃないか?」
「何か、疲れた一日だったよ・・・・・・」
「だな。オレも、何かどっと疲れた気がするよ・・・・・」
悠里の呟きに頷くと夏は大きく伸びをする。後ろを歩く悠里も微かに零れ出そうな欠伸を噛み殺しながら少しだけ肩を緩く回しながら思わず目に入った光景に回しかけた肩をそのまま立ち止まる。

「どうした?」
いきなり立ち止まった悠里に不審そうに声を掛けながら視線の先へと目を向けた夏さえも思わず目を瞠る。
そこにいたのは、職員室に呼び出されたまま戻ってこない泰隆その人で、その隣りには縋りつく女が一人。振り払う腕を必死に掴もうとしている。少し離れているせいで顔もはっきり見えない泰隆に縋りつく女の着ている服から想像するしかないけれど、とても悠里達と同年代とは思えなかった。
高いヒールは折れそうなほど細い、その先に見せる細い足、休日のせいかスーツではないけれど、年相応なのだろう、短いスカート、秋なのに、少し薄手のシャツにストールをつけている長い髪は腰まであり、泰隆が振り払うその度にさらさら、と揺れる茶色の髪。下から上へと眺め、思わず凝視したまま立ち止まる悠里の視線が泰隆と絡みついた気がする。
つい逃げようと背を向けた悠里の願い虚しく、泰隆は今まで以上に乱暴に女を振り払うと二人へとすぐに近づいてくる。
「・・・・・先生、シュラ場は勘弁して・・・・・・」
「何の事だよ、悠里、逃げんな! 頼むから、助けて・・・・・」
慌てる夏の声に噛み吐く様に叫んだ泰隆はほとんど背を向きかけている悠里へとしがみつく。
「・・・・・相手、間違ってない?」
思わず顔を上げ問いかける悠里に泰隆は眉を顰めると首筋へと顔を埋めてくる。
「永瀬先生、来ますよ、連れの人・・・・・」
「・・・・・頑張って足止めしろ、伊藤! じゃあ、な」
抱きついてた腕を離しながら、悠里の背を押す泰隆は慌てて問いかける夏ににっこり、と笑みを向け残酷な答えを返しながら悠里の腕を引き歩く、というより走り出す。
突然腕を捕まれ走り出された悠里はちらり、と背後に目を向ける。
遠ざかる背後で夏が近づく女を必死に止める姿がちらり、と見えた瞬間悠里は微かに記憶の底に引っかかるものを感じたけれどそれはすぐに遠ざかる。


*****


立ち入り禁止の教室へと入り込みスタミナ切れか壁に背をつけ荒い息を吐き出す泰隆の前座りこんだ悠里は目の前の人をじっと見つめる。理由も告げずに逃げる様にこの教室に入った泰隆が分からなくて悠里は口を開こうと自身も乱れた息を整える。
「・・・・・誤解、すんなよ・・・・・あんな女、オレは全く興味も何も無いから・・・・・」
「誤解って・・・・・知り合いじゃないの?」
「・・・・・オレは知らないんだけど・・・・・何で?」
問いかける前に先手必勝だと言わんばかりに早口で告げる泰隆に悠里は首を傾げながらも疑問を投げかける。答えながら泰隆自身も不思議そうに首を傾げる。名指しで呼ばれたんだから、知り合いらしいのだけど、全く名前も顔も思い出せないのだと、ぶつぶつ呟く泰隆に悠里は眉を顰める。記憶の底に引っかかるものを感じたのを口に出そうとしながらも告げる内容は全く別の事だった。
「・・・・・遊んでた時の知り合い、とか?」
「無い! 遊ぶ相手はこれでも選んでるよ。顔も名前も覚えてないなんて、あり得ないだろ?」
決して素行が良いわけじゃなかった過去を嫌味の様に持ち出す悠里に泰隆は思いっきり首を振り否定する。悠里からしてみれば、遊ぶ相手に選択も何も無いと思うのだけど、泰隆なりにこだわりはあったらしい事実に微かに息を吐く。
「・・・・・信じてない?」
「信じてます!・・・・・・っ、顔、近いよ、先生!」
顔を覗きこむ泰隆に驚き悠里は思わず後ずさる。それでも近づいてくる泰隆に腕を引かれた悠里は息が掛かるほど近づく顔に思わず瞳を閉じる。引かれる腕とは対象的な程軽く触れた唇は一度離れてすぐにまた触れられる。今度は温もりが伝わる程深く強く触れられた熱い唇と同時に体も引き寄せられる。いつしか、互いの体を抱きしめ、何度も唇を触れ合わせる二人の間からは濡れた音が響き出した。
「・・・・・んっ、先生・・・・・」
「ダメ、名前で・・・・・こんな時にソレは何か、かなり・・・・・」
いけない関係だと、ひっそり、と呟く泰隆に悠里は濡れた瞳を押し上げ微かに笑みを零す。いけない、も何も、根本から間違っているのだと言いたいのに、好きと告げられれば返したくなる。触れられれば熱くなる体はもっと、と先を求める。
「・・・・・泰隆、さん」
擦れた悠里の声に答える様に唇へと触れてくる泰隆へと手を伸ばしその体へと縋りつく。薄い布越しに伝わる温もりに悠里は顔を擦りつけると、伸ばした手を背へと回し強く抱きついた。聞こえてくる外の音も与えられる熱で遠のいていくのを感じた。

『関係者以外の皆様、起こし頂きまことにありがとうございました。 そろそろ終了の時間になります。お忘れ物の無い用に速やかにご退出お願いいたします。』
校舎に流れ出す淡々とした事務的な挨拶を聞いたのは一通り熱情に身を任せ着崩れた服を直している時だった。
「珍しいね、こんなの・・・・・流れたっけ?」
去年を思い出そうとしても記憶は曖昧で覚えが無い。悠里は同じく服を直している泰隆へと問いかけながら目を向ける。
「去年はいなかったし・・・・・どうだろうね? でも、残られたら片付けするのに困るだろ?」
首を傾げ答える泰隆にそれもそうか、と思いながら悠里は立ち上がる。
「・・・・・何か、文化祭なのに・・・・・」
「それも思い出になるって! 卒業したら笑い話になりそうじゃない?」
同じく立ち上がりぽんぽん、と軽く頭を叩いてくる泰隆を見上げた悠里は微かに笑みを浮かべる。
「・・・・・来年も傍にいる?」
「いろよ! 来年も再来年もその先も。 オレとの未来だけ考えろ!」
肩を引き寄せ抱きしめる泰隆の腕の中、悠里は胸元へと顔を押し付ける。自分のモノだという思いもあるのに、慣れた匂いを嗅ぎながら、何度も記憶の底を蠢く見えない何かに必死に手を伸ばそうとした悠里は閃く記憶に慌てて泰隆へと目を向けた。
「・・・・・何?」
「お見合い写真!」
「は?」
「・・・・・だから、泰隆さんのお見合い写真の人だよ、さっきの人! 間違いないよ!!」
顔を上げ嬉々として告げる悠里に泰隆はただ目を瞠る。記憶の靄が晴れた事にすっきりした悠里は目を瞠った泰隆が微かに眉を顰め溜息を零した事には気づかなかった。それより先に泰隆がぎゅっと悠里を抱きしめたから。
「泰隆、さん?」
「・・・・・好きだよ、悠里。 オレには悠里だけだよ。」
「オレにも泰隆さんだけだよ。 大好き!」
うっとり、と告げられた言葉に笑みを浮かべ胸元に照れた様に頭を擦りつけた悠里を泰隆は無言できつく抱きしめた。
まさか悠里の記憶が意外な波紋を産むなんて事、悠里にはその時が来るまで全く気づかなかった。


*****


「夏草や兵どもが夢の跡、ってこんな気分かな?」
「伊藤、夏じゃないし、何か意味が違わない?」
「じゃあ、國破れて 山河在り、城春にして 草木深し・・・・・」
「それも違う! いきなり、何? 俳句に目覚めた、それとも漢詩?」
「・・・・・いや、俺が知ってるのがこれだけ。 確かにあれは戦の跡形が見当たらないとかそんな意味だけど、何か、築き上げたモノがなくなる時ってこんな感じがしない?」
少し前までは屋台が並んでいた場所はすでに取り壊されている。ゴミとなった飾りを拾う人も見受けられる。辺りを見回した悠里は夏の言葉をもう一度口の中で呟いてみる。
戦をしていたわけじゃない、別に取り壊された場所は元々草が生えていた場所でもない。それでも何となく分かる気がして悠里は微かに笑みを浮かべた。
「そういや、永瀬先生、何か言ってた?」
「・・・・・え?」
「だから、あの女! 何、昔の彼女とか?」
ぽつり、と呟く声に首を傾げ不思議そうな顔を向ける悠里の顔を覗きこむ夏は更に言い募る。それでやっと気づいた悠里は微かに眉を顰めると苦笑を向ける。
「何か、嫌な予感がするんだけど・・・・・関係ないって言ってるけど・・・・・」
「元カノとかじゃないのか?」
見合い相手になるはずだった人とは言えずに黙り込む悠里に夏はただ肩を軽く叩くとまだ苦笑を浮かべる悠里の顔を覗きこむ。
「まぁ、何とかなるんじゃないのか? 分かんないけど・・・・・」
「・・・・・だと良いよね。」
深く追求する事を相変わらずしない夏の曖昧な慰めに悠里はただこくり、と頷く。

肌を擦る冷たい風が秋を通り越し冬に向かうのを感じながら、消えない胸騒ぎをそのまま悠里は空を見上げた。


終わる終わる詐欺みたいで何か嫌〜な感じのまま、すいません、続きます。
伏線は消化しないと;という訳で次回が本当に最終章になるはず、ですよね? 20100212

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