38

道井由香との出会いは大学に入ってからだと安曇はそんなに昔でもないけれど、できればあまり思い出したくない過去を思い出すかの様にたまに深く目を閉じながら、ぽつぽつと語りだす。
「ある日、何の前触れもなく一目惚れだと告白された。 でも俺にはその頃から穂高がいたし断ったんだよ。だけど・・・・・」
桜咲く四月、入学式の最中由香は安曇を見つける。ところが安曇にはそう言われても記憶は曖昧で、当事から常に隣りにいた穂高と『入学式』だと言うのに、くだらない話をひっそりしていた事しか覚えていない。式が終わったら早々に帰ったので大勢人がいる中で興味の全くない女の視線なんて気にするはずも無かった。
一目惚れした安曇の視界に入るべく由香がした事はストーカーじみた行為だったらしく、告白するまで彼女は安曇の行くところ全てをひっそりと調べ上げた。それはもう学部から必要あるのか自宅や今は一人暮らしをしているアパートとか、バイト先。当然安曇を調べれば常に行動を共にする穂高の事も視界に入るけれど、由香は自分の友人達に嘘を真実の様に話しだした。
「俺が彼女と話すのを穂高が邪魔したとか、バイト先やアパートに穂高が度々現れる、とか・・・・・女子の間に広まった噂は俺達の知らない間にかなり広まっててね・・・・・」
収拾がつかなくなった、と安曇は眉を顰め呟く。否定して回っても追いつかないほどに広まった噂は穂高を疲弊させた。それは安曇の本意ではなかったけれど、彼女を刺激しない為にも、穂高を守る為にも仕方がない事だった。
「だけど、俺は穂高を切れないから、裏切る事になるのかな?」
自嘲の笑みを浮かべる安曇の話に夏も悠里も何かを言う事もできないままただ黙り込む。第三者が聞いたらきっとおかしい、と思うそれだけの事実があるのに、噂はある事無い事で人を苦しめる。本意じゃない、だけど起こった事実で、今が現実だ。おかしな世界に紛れ込んだ、まさにそれしか思い浮かばず、悠里は夏と顔を見合わせると同じ事を思っているだろう友人に微かな笑みを向ける。
「あの、それで、穂高さんにその後の噂は?」
「うん? ああ、そういえば落ち着いたよ。ねぇ?」
夏の問いかけに安曇はそういえば、と穂高の顔を見ながら呟く。実際、そこまで広まった噂がどんな形で収拾をつけたのかは思い出せないのか、穂高へと顔を向ける。
「・・・・・あまり信憑性は無かった噂だし、それに、彼女が安曇に近づけた目的は果たせたみたいだし、ね。」
引き継ぐ様に笑みを浮かべ告げる穂高は噂の否定も肯定もしなかった。当事を思い出せば不快だった気持ちも思いだすから、と思えばそうだけど、曖昧な穂高の笑みに夏はちらり、と悠里へと視線を向ける。
言葉に詰まり沈黙が続いた中、携帯の着信音が突然響きだした。

「ごめん! 俺だ・・・・・」
ズボンのポケットに入れていただろう携帯を慌てて取り出した安曇は電話じゃなくメールだったのか、すぐに内容を確認する。形の良い眉がメールを見ながら次第に顰められていく。
「・・・・・俺、行かないと・・・・・本当に、ごめん!」
立ち上がり、バッグを手に穂高へと軽く手を上げ謝ると安曇は急いで店を出て行く。携帯でメールを書いているのか、片手に持った携帯を見ている安曇は店に背を向けると人の群れの中へと紛れていく。
「・・・・・なんか、ごめん。 あいつが誘ったのに・・・・・」
「いえ、呼び出し、ですか?」
「・・・・・多分、そうだろうけど・・・・・」
遠ざかる消えゆく背中を見送り、穂高が夏と悠里へと顔を向け呟くから、思わず夏は問いかける。頷き、苦笑にも似た笑みを浮かべる穂高は考えるように言葉を紡いだ。誰からの呼び出しなのかも穂高は理解しているのかあえてその先は告げない。そんな穂高に夏と悠里は顔を見合わせる。話を聞いといてこのまま「さよなら」ならあえて聞いた意味がなくなる。だからといって、何か出来るかと思っても解決策なんてどこにも無い。戸惑いの瞳を向けてくる悠里に夏は微かに笑みを浮かべるともう温くなっているだろうカップに口をつけている穂高へともう一度視線を向ける。
違和感が消えない。安曇が話している時も終始無言だった、安曇の本当の「恋人」である穂高へと違和感。夏は大きく息を吸い込むと口を開いた。
「安曇さんとこのままで良いんですか?」
沈黙を破る夏の声に穂高が顔を上げる。隣りで夏を見ている悠里が少しだけ眉を顰めるのを視界の端に収めながらも夏は再び口を開く。
「このまま曖昧にして良いんですか? 確かに迷惑な彼女かもしれないけど、今現在公認なのは、誰もが認めている「彼女」なんですよね?」
「・・・・・そうだよ。 安曇だって満更じゃないと思う。 あそこまで熱烈に思われれば誰だってその気になるだろ?」
夏の問いかけに穂高は微かに笑みを浮かべると手に持つカップをテーブルに置くと真っ直ぐに夏を見つめ答える。
「別れたいと思ってる。 公認だと誰もが認める「彼女」一人でもう良いだろ、って・・・・・本当はどこかで思ってるのかもしれない。奇妙な三角関係を俺は降りたいって・・・・・」
穂高の呟きに夏は悠里と顔を見合す。予想していたのか意外にも驚かない悠里に夏は友人も同じ事を考えていたのかもしれない事に確信を持ち、穂高を見返す。
「別れたいって、安曇さんには言ってるんですか?」
「・・・・・ソレらしい事は告げたけど、相手にもしてくれない。 驚かないね、君達。」
ゆっくり、と言葉を繋げる夏に穂高は笑みを深くして答える。動じない彼らをゆっくり、と眺める。
「・・・・・恋人でいるの辛いですか?」
口を開かなかった悠里の問いかけに穂高は予想外な問いかけだったのか瞳を見開く。それはすぐに遠くを見る様な瞳に変わり、静かに閉じられる。
「・・・・・罪悪感が消えないんだ。 安曇と会うたびに、俺が悪い気がして・・・・・おかしいのは俺なんだって思わされる。」
それは悠里の問いかけへの答えでは無かった。だけど、聞いてるこちらが痛みを感じるほど苦い答えでもあった。
結局当事者の一人、安曇がいないので今度改めて時間を設けるからと、連絡先を聞いた穂高と別れ、夏と悠里は躊躇いながらも友人二人との待ち合わせの場所へと向かった。

ホテルに帰りつき、夕飯も食べ部屋で寛ぎながら、まだ沈んだままの悠里へと夏は顔を向けると口を開いた。
「関わるんじゃなかったって、後悔してる?」
「・・・・・ごめん・・・・・結局、伊藤まで巻き込んだ。」
「良いけど、解決できる策なんてあるの?」
「分からないけど、楽にしてあげたいかも。」
苦痛に耐える様に告げる穂高の顔を思い出す。それは本当なら言いたくない事だったのかもしれない。だけど、言わずにはいられなかった最後の一言。追い詰められているのは、安曇じゃない。
「・・・・・穂高さんの事?」
「うん、何が出来るかな? あの人達に一番良い方法って、何だろ?」
夏の言葉に頷きながらも悠里は呟く。
きっと今も消えない罪悪感を抱いている綺麗な人を思い出し悠里は溜息を零した。


*****


薄暗い部屋、灯す明かりも小さく絞り、軽くそっと触れるだけの口吻を何度も交わす。息が次第に乱れ熱が篭るキスへと変わるその時を待って何度も交わす渇いたキスは少しづつ互いの舌をも絡める深いキスへと変わる。
「・・・・・何、考えてる?」
「何って、安曇の事?」
いきなり唇を離し問いかける低い声に微かに口元を緩め告げると首を傾げる穂高に安曇は眉を顰めると体も離す。ぴったり、と寄り添った温もりが離れると同時に微かな息を吐く穂高から離れた安曇はソファーへと足を向けると乱暴に座る。
「・・・・・安曇?」
「穂高、俺と別れようと思ってる?」
眉を顰め言いたくない事を告げる様に吐き出す安曇はテーブルに置いてあった煙草へと手を伸ばすと口に銜えた煙草に火を点ける。火に照らされ見える顔は不機嫌で穂高は黙って首を傾げる。
「どうして?」
「・・・・・俺が彼らに話してる時も他人事だったから、他人事にしたい事になってるわけ?」
見てない様で見られていたのか、と内心穂高は安曇の意外な指摘に驚きはしたけれど、表面ではただ曖昧な笑みを浮かべるだけに押し止める。不毛な三角関係だと思ってた。すんなり話が纏まる方法も何となく気づいてはいたけれど、ずっとソレを遠まわしにしていたのは誰でもない穂高の方だった。現状維持を受け入れて、でも内心ではそれが耐えられない、そんな矛盾をずっと抱えてきた。
「・・・・・別れたいって言ったら頷いてくれる?」
「穂高?」
「安曇と彼女お似合いだと思うよ。 だから、俺と別れてくれる?」
首を傾げ笑みを浮かべたまま淡々と告げる穂高に安曇は顔を向けてくる。冗談なのか本気なのか見定めようとでもするような真剣なその眼差しに穂高はただ笑みを浮かべた。
「安曇?」
答えを催促するかの様に名を呼ぶ穂高の前、安曇は銜えていた煙草を乱暴に灰皿へと押し付けるとソファーからも立ち上がる。足元はカーペットだから足音すら響かないのに、荒い足音が聞こえてくるようで穂高は近づいて来る安曇をそれでも目を逸らさずに真っ直ぐ見つめる。手を伸ばせばすぐにでも触れ合える程近くに来て安曇は足を止める。すぐにでも踏み出せば近づけるその場所で安曇は何を言うでもなくただ穂高へと顔を向ける。
「どうかした?」
「・・・・・俺と別れたいのが穂高の本音?」
「だったら?」
「・・・・・そう。なら、俺は穂高と別れる気は無いから、勝手に罪の意識に苛まれろよ。 彼女と俺が仲良くなるのが穂高の願いならそれは叶えるよ、だけど、俺はお前とは別れないから、それだけ覚えといてよ!」
「安曇? ちょっと、どこへ?」
「帰る。その気もないヤツ抱いてもつまらないし。 仲良くなるのがお願いなんだろ? 彼女でも呼び出す、じゃあな。」
そのまま出口へと向かう安曇を呆然と眺めた穂高は言われた言葉をぼんやりと浮かべ、慌てて自分もドアへと向かう。
人の気配の消えた部屋の中、灰皿から完全に消えていない煙草から燻る白い煙がゆらゆらと立ち上っていた。

「ちょっと、待てって言ってるだろ?」
「離せよ! 今日はもう穂高とはいたくないんだよ!」
「だから、彼女を呼び出すって? 別れたくないのはそっちの勝手だよ、だけど・・・・・彼女と寝たら、俺は安曇とは別れるから。」
「・・・・・何、言って・・・・・」
引き戻そうと腕を掴む穂高を拒み、今すぐにでも部屋を出て行こうとする安曇に腕を離した穂高はきっぱり、と告げる。驚いた顔をする安曇に穂高は「それでも良いなら行けよ! それで俺との仲は終わりって事で」と言葉を繋げる。
穂高の見上げてくる瞳を見た安曇は口元を歪め苦い笑みを浮かべると穂高の腕を引き、彼の肩へと頭を乗せる。
「安曇?」
「・・・・・俺が穂高と離れられないって、知ってるのにそういう事言うんだ・・・・・」
縋りつくように抱きつき、搾り出す様に擦れた声で告げる安曇に穂高はその体へとそっと腕を伸ばした。離れられないのは穂高もだ。お互いにとって何が最善なのか、考えなくても分かるのに、この腕を離せない。穂高は縋りついてくる安曇の背に伸ばした腕にだからそっと力をこめた。


*****


二度目の再会の場所は悠里と夏の宿泊しているホテルだった。地理に詳しくないのもあるけれど、修学旅行生の二人に遠出をさせるわけにはいかないと、自由のきく安曇と穂高が訪れる方が便利だったのもある。
ロビーで佇む二人を見つけた悠里が一番先に頭を下げてきて、すぐ後ろを歩いている夏は微かに頭を下げただけで、四人はホテルの中にある喫茶店へと腰を落ち着けた。
「一晩寝て、頭がすっきりしたっていうのは、無い・・・・・ですか?」
席について開口一番の夏の呟きに安曇と穂高は顔を見合わせると苦笑を向ける。
「一晩で落ち着くなら、ここ数年現状維持なんて方法は取ってないよ。」
切り返す安曇に夏もそうですよね、と頷くと悠里へと顔を向ける。向けられた悠里は肩を竦めると安曇と穂高へと改めて顔を向けるとただ笑みを浮かべる。
「他人の恋愛に口を挟んでもなるようにしかならない、と俺も滝沢も分かってます。・・・・・だけど、関わったんだから、できる限りの事はしますけど、どうすれば良いですか?」
いきなりの直球な質問に穂高はただ苦笑を、安曇は微かに口元を緩める。
「・・・・・誰かに話してみたかっただけだとしても」
「それでも、何か冷静に見れる糸口が見つかるなら、それに越した事はないですよね?」
安曇の問いかけにも冷静に返す夏の答えは高校生にしてはしっかりしていて、いまどきの高校生の意外性を見出す。大人になる前の微妙な年代。歳はそんなに変わらない、けれど成人している者としていない者の落差は激しい。それなのに感じさせない物言いに安曇は笑みを深くする。話した相手が間違っていなかった確信を持って。


まだまだ模索中です。

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