「もしかして、弟さん?・・・・・あんまり似てないね。」
鼻につく妙にきつい香水の匂いのする女の視線から顔を逸らした夏はそのまま無言で部屋へと立ち去ろうとする。
「・・・・・あれは母親、俺は父親似らしいからな。・・・・・からかうなよ、あいつ初心なんだから。」
呆れた声が女を諌めているのが聞こえ、夏は微かに振り向く。 女を覆い隠すような大きな背、頭を撫でる手も指が長いけれど、華奢ではない、大きな手。笑う女の顔が上からだと一番に目に入る。 夏は頭を振るとそのまま自室へと振り向く事なく向かった。 遠い存在だった。年が離れているとか、同じ家に住んでいるのに会わない時間の方が多いとか理由ならたくさんあるけれど、どれも後からつけられる些細な理由。 夏にとっての秋紀は兄であるという名義だけのただ同じ家に住んでいる他人、そのはずだったのに最近おかしくなっているのは夏自身が一番自覚していた。
「夏、お母さん、今日遅くなるから、お兄ちゃんと二人で夕飯食べてね。」
「・・・・・え?・・・・・あの人勝手にどこかで食べてくるじゃん!」
「お兄ちゃんにあの人はないでしょ。・・・・・今日は出かけないって言ってたから、秋紀の分もよろしくね。」
情けない顔をしているのだろう夏に困った様な笑みを浮かべると母は夏の頭を軽く撫でてくれる。 ほとんど家に居なかったはずの秋紀は最近出かける事が少なくなった。 働いてないから金が無いというのも理由の一つだろうけれど、出かけても必ず家に帰ってくる。だから、今までとは違い会わない日なんて無くなった。 常に居る人に変わったのに、それでも母や父と違い夏の中で秋紀はどこまでも遠い存在だった。
*****
「何か、前は俺の方が疲れてる気がしていたのに最近、伊藤妙に疲れてない?」
「・・・・・そんな事は・・・・・あるのかも。家に帰りたくない。」
悠里の言葉に一瞬迷った夏は脳裏に秋紀の姿を思い浮かべ深い溜息と共に呟く。 家に帰りたくない理由が「兄がいるから」なんておかしい理由だと自覚していても、秋紀と会うだけで疲れる気がする。 話をするだけで苛々する、同じ家に存在しているそれだけで背中に悪寒が走る。 今までだって家に帰れば秋紀がいる日だって会ったのに、最近妙におかしい自分に戸惑い溜息しか吐き出せなかった。そんな夏に悠里は首を傾げたけれど、何も言おうとはしなかった。
「何も聞かないのか?」
「言いたくなったら伊藤は自分から言うだろ?・・・・・俺もその時までは詮索しないよ。」
顔を上げ問いかける夏の声に顔を向けた悠里は笑みを浮かべ答える。何も言わずに傍にいる、夏休み前自分のしていた行動だった事に気づいた夏はただ笑みを返した。
「そういえば、参考になるか分かんないけど、まともな職だから教師になったんじゃなくて、向いてると思ったから仕事にしようと思ったんだって。・・・・・あの人が言ってたよ。」
「え?・・・・・ああ、教師になったら給料良いとか、じゃなくて?」
「なりたいからなった、だって。・・・・・伊藤の兄ちゃんもなりたいものを必死に探してるんじゃないの?そういう真っ直ぐな潔い生き方は俺にはできない、とか言ってたけど・・・・・」
「あの人は何か、現実主義者な気がするよな?」
「・・・・・そう?あれで以外と夢見るところもあるよ。」
何かを思い出したのか上を見上げたまま答える悠里に夏は盛大なのろけを聞かされた気がした、と呟き笑いだす。 顔を赤く染め何も答えない悠里に夏はますますこみあげてくる笑いを堪えきれず一人いつまでも笑っていた。
家が近づく度に足取りが重くなる気がして夏は足を止めると大きく深呼吸をする。 ただ家に帰るだけなのに、あの家に秋紀がいると思うそれだけで、学校での楽しい気持ちが消されていく気がする。 見慣れた家の門を開けるのに、何度かもたつき夏は鞄の中から鍵を取り出した。 ガチャン、と鍵が開き夏は重い扉へとそっと手をかける。 玄関に並ぶのは見慣れた家族の靴、それ以外は何もなく、今日は来客がいない事に少し胸を撫で下ろすと、夏はそのまま靴を脱ぐと階段へと足をかける。
「お帰り、帰ってきたんなら声、かけろよ。」
背後から聞こえる声にびくり、と肩を揺らした夏はそろそろと後ろへと顔を向ける。 もう、夕方近いのに起きぬけなのか、パジャマ姿の秋紀はぼさぼさの頭を掻きながら夏へと顔を向ける。 片手に持っている歯ブラシに視線が動いた夏はそのまま背を向けると階段を上りだした。
「おい、夏!・・・・・無視するなよ。最近、妙に突っかかるけど、反抗期か?」
「・・・・・相変わらずの優雅な生活振りに呆れてるだけだよ。歯ブラシ片手に近寄るな!」
追いかけようと階段に足をかけながら話しかける秋紀を夏は睨み付けるとそのまま一気に自室まで駆け上がる。 勢いをつけてドアの閉まる音を聞いた秋紀は溜息を零すとそのまま手にした歯ブラシを口に銜え直すと階段へとかけた足を戻し洗面所へと戻って行く。
鞄をベッドの傍へと置くと夏はそのままベッドへと倒れこむ。昼夜逆転生活どころか時間の感覚すら無いんじゃないかと思う程いい加減な生活をしている秋紀を見ているそれだけで苛ついてくる。
「夏、出て来いよ!・・・・・夏!!」
ドンドン、と乱暴に扉を叩く音と同時に聞こえてくる声に溜息を吐いた夏はベッドから起き上がるとドアへと向かう。
「・・・・・何か用?」
「夏、何か俺に不満とかあるのかよ?最近ずっとぴりぴりしてないか、お前。」
「関係ないだろ。・・・・・で、何か用?」
「・・・・・ああ、あのさ、俺ちょっと出かけてくるから、夕飯どうする?」
頭を掻きながら告げる秋紀から視線を逸らしていた夏はその言葉に思わず顔を上げる。
「夕飯食べてくるの?・・・・・じゃあ、いらないね。分かった、いってらっしゃい!」
じゃあ、と扉を閉めようとする夏を押しのけ秋紀は何も言わずに部屋へと強引に入り込んでくる。
「もう用は無いだろ・・・・・出かけるなら早く支度すれば?」
迷惑そうに眉を顰め呟く夏に秋紀は困った様な笑みを浮かべるとそのまま肩を掴んでくる。
「・・・・・秋紀?」
「俺がいないのが夏は嬉しそうだね。・・・・・夕飯、良かったら俺と一緒に食べに行かないか?もちろん、俺の奢りで。」
「いらないよ、働かない人に集るのは俺の趣味じゃないし。自分のごはんぐらい何とかするから、早く行けば?」
肩を掴む手から逃れようと身動ぎしながら呟く夏に秋紀は肩を掴む手に更に力をこめてくる。
「・・・・・っ、痛いよ!」
「そんなに俺と出歩くのは嫌?・・・・・昔は俺の後をひたすら着いてきたくせに。」
「いつの話だよ!・・・・・いい加減離せよ!!」
「食事に行ってくれるなら離すよ。どうする?」
尚も言い募る秋紀に夏はこれみよがしに大きな溜息を吐くと頭を振る。
「分かったから離せ!・・・・・行けば良いんだろ?」
「・・・・・すぐに支度してくる。5分後に行くから制服からとりあえず着替えといて。」
諦めた様に呟く夏に秋紀はやっと肩を掴む手を放し、嬉しそうな声で告げると部屋を出て行く。呆然と見送った夏は捕まれた肩がじんじんとした痛みと熱を訴えるのを無視すると制服のボタンへと手をかけた。
*****
「秋紀、こんなとこ、本当に平気なの?」
連れて来られた場所は、気楽なファミレスとは程遠い世界な気がしているフランス料理専門店だった。 メニューを見ても良く分からない夏に辛いものは平気?とか苦手なものはある?と聞いといてすらすらと頼む秋紀は誰が見てもこの店に慣れている人だった。 「余計な事考えるなよ。」
「でも、フランス料理って、高いじゃん!」
「平気。・・・・・甘いものとかいる?」
「・・・・・秋紀?」
眉を顰める夏に笑を見せ秋紀は店員が持って来た食前ワインを美味しそうに飲む。 色彩鮮やかな目でも楽しめる食事が次々と運ばれてきて、夏は浮かないよう周りに気づかいながらも珍しい食事の数々にこくり、と思わず息を飲んだ。
「美味しかった〜!・・・・・でも、本当に大丈夫?ニートがこんなとこに・・・・・」
「まだ言ってるし。平気だから連れて行ったんだよ、それより、夏こっち。」
食べ慣れない、けれど確実に美味しかった食事を終え、ふらふらと夜道を歩きながら呟く夏に秋紀は苦笑すると腕に嵌めていた時計を見ると夏の腕を引き寄せる。
「秋紀?」
「行くとこあるって言っただろ?・・・・・ついでだから夏もおいで。」
有無を言わせないまま歩き出す秋紀に腕を引かれ、夏は眉を顰めたまま歩き出す。 高いビルばかりが立ち並ぶ、普段夏が遊びに行く場所とは違う、夜道すら消えないビルの明かりで夜道とも呼べない。行き交う人達はビジネスマンが多いのか、皆スーツ姿で、若者と呼べる人達は全くいない。
「・・・・・秋紀、どこへ?」
急いでいるのか、無言のまま歩くペースを上げる秋紀に引きづられ、夏は不安そうに問いかけてみるが答えは返らなかった。
「仕事先、ここで人と待ち合わせしてるんだ。」
やっと足を止めぽつり、と呟く場所を見上げた夏は何も言えずに秋紀を見る。 視線に気づいたのか夏へと目を向けると笑みを浮かべる秋紀は躊躇う事なく歩き出した。 何の看板も建ってないビルの中へと進んで行く秋紀に腕を引かれたまま夏は知らない場所へと足を踏み入れた。
大変更新遅くなるほど躓きました;秋紀は誰と会うのか? ではまた次回!
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