ドアを開けた時にもしかしたら、と思っていたけれど、確信に変わったのは部屋の前を通った時だった。 押し殺した、それでも堪えきれない声が聞こえ、思わず足を止める。 学生の時は玄関に女物の靴が並んでない日ははっきりいってなかった。 働かない男、我が家の寄生虫扱いされている、夏の兄、秋紀(あき)の生活態度はあの頃から少しも変化していない。 来る者拒まず去る者追わずな性格の秋紀は働かない男になっていても、日替わりの女を欠かさない。 毎度の事だから、またか、と眉を顰めたまま部屋の前を通り過ぎようとした夏はいつもと違う異質な声に気づく。
「・・・・・・秋紀?・・・・・いるの?」
一瞬躊躇いながらも遠慮がちにドアをノックし告げる夏の声に中が少し騒がしい。 今どき、行為に慣れていない初心な小娘でも連れ込んでいるのかといぶかしながらもノックを続ける夏の前、軽いようで滅多に開かない扉が開く。
「・・・・・お帰り、夏。・・・・・何、どうかした?」
「何か物音が・・・・・喧嘩、とかじゃない、よね?」
物がぶつかるような音、それから、何か堅いものが落ちるそんな異音に反応し問いかける夏にドアを少しだけ開き顔を覗かせた秋紀は見上げてくる顔に笑みを浮かべる。
「・・・・・秋紀?」
「今日はいつもより早いね。・・・・・とりあえず、下に行こうか?」
部屋を出ると、素早くドアを閉め夏の背を押し促す秋紀の態度に夏は不思議そうに顔を上げる。
「・・・・・何もないなら、良いよ。・・・・・放せよ、俺、部屋に帰るから・・・・・」
「夏!・・・・・とりあえず、下に行こう。」
その手を拒み、逃げ腰になりながら呟く夏の背をもう一度強く掴んだ秋紀は強引に彼を引きづる様に連れて行く。 遠ざかる部屋からは微かな物音と、微かな喘ぎ声がまだ聞こえていたけれど夏にはもう聞こえなかった。
「ほら。これ。」
「ありがとう、って・・・・・置いてきて良いの、彼女待ってるんだろ?」
渡された湯気の出ているカップから香る甘い匂いに、それがココアだと知り眉を顰める夏の目の前で秋紀は自分のカップにも今度は豆の匂いがこちらまで分かるコーヒーを注いでいる。
「平気、だよ。それに彼女じゃないし。」
コーヒーをゆっくり、と口に含みながら呟く秋紀に夏は口を開こうとして黙り込むと手にしたカップへと口をつける。
「部屋を提供してお金を貰う、ただのバイトだから。」
「・・・・・何の為に?」
「AV。・・・・・といっても海賊版だけどね。」
「・・・・・秋紀?」
「見てるの飽きたから、帰ってきてくれて嬉しいよ。」
にっこり、と笑みを向ける秋紀の顔から目を逸らした夏は相変わらず変なバイトしか見つけない兄に溜息を吐いた。 目の前で呑気な顔してコーヒーを飲んでるこの男は大学まで卒業したのに、まともな職についた試しがなかった。内定まで貰った大手企業の職を蹴り、親に何と言われようとその場しのぎのろくでもないバイトを細々として喰い繋ぎ、挙句の果てには、この兄がどこまで落ちて行くのかは身内としてはそれなりに心配はしていたのに。
「秋紀。」
「・・・・・母さん達には言うなよ。バイト代が入ったら、夏の欲しいモノ、買ってやるし。」
「秋紀、そうじゃない!・・・・・何で、そんなのばっか。この前はデートクラブみたいなところだし、少しはまともな職を探そうよ。」
「夏の言うまともな職って何?誰にでも自慢できる仕事の事?・・・・・俺は今の自分に満足してるんだけど、文句言うなら夏は俺に関わらなければいいだろ?・・・・・兄弟だって言っても、俺が学生の時は俺の話を一言だって友達にすらしなかったくせに。」
乱暴に流し台にカップを置くと、秋紀はそのまま部屋を出て行く。 一人残された夏は大きな溜息を吐き出すと、温くなったカップへと口をつける。 口の中に広がる甘い液体をそのままごくり、と飲み込んだ。
*****
兄である秋紀との年の差はイコール世代のギャップを感じさせる。価値観や世界観、小さく例えれば物に対する見方も違う、相容れない存在。兄弟だけれど、近くにいるのに遠い、それが夏の秋紀への長年埋め込まれていた壁だった。 兄弟だからこそ、遠い存在ともいうけれど。 「修学旅行」の下調べをするつもりなのか、ガイドブックを真剣に見つめている目の前に座る友人へと思わず視線を向けた夏は彼には秋紀と同じ年くらいの「恋人」がいたのを思い出す。
「・・・・・なぁ、滝沢。ちょっと、聞きたいんだけど・・・・・」
「・・・・・へ?・・・・・珍しいね。伊藤が俺に聞きたい事あるなんて・・・・・」
ガイドブックを真剣に見つめていた訳ではないのか、すぐにかける声に反応する友人は夏の顔を見ると少しだけ笑みを浮かべ手にしたガイドブックをぱたり、と閉じる。
「いや。簡単な事なんだけど、お前の「恋人」についてなんだけど、さ?」
「・・・・・」
無言で眉を顰める悠里に夏は躊躇う様に言葉を濁すが、頭を振ると口を開く。
「・・・・・話とかどういう事話す?・・・・・あのさ、意見とか合わなくないか?」
「意外、な事聞くね。・・・・・別に、普通の事話すよ。そりゃ合わない時もあるけど、それは年だけの問題じゃないと思うけど?」
「普通、か・・・・・」
「伊藤?・・・・・何、好きな人がめちゃ年上なわけ?」
「・・・・・ちっ、違うよ!・・・・・うちの兄の事で・・・・・あいつ、まともな職に就いてないから・・・・・」
ぶつぶつと段々声が小さくなる夏に悠里はただ首を傾げる。ただ頭の中に飛び込んできた会話があった。
『「今の人、あれだけでいいの?」
「おーっ、滝沢おはよう。・・・・・良いんだよ、あれ身内だし。」
「お兄さん?」
「そう。最初は母親が送ってくれるって言ってたんだけどさ、あいつ、ほぼニートだから、使わないと。」
「ニートって、酷くないか?」
「酷くない。いい年した大人が働かないのはニートだろ。それ以外の言葉は無いね。」』 夏の旅行の最初の日の夏の辛辣な態度、兄弟なんてそんなもんなのかと思っていたけれど、見送る車を見ていた夏の目が少しだけ細められていたのを思い出す。
「お兄さんと仲悪いの?」
「・・・・・さぁ、会話が無いからな。・・・・・悪くも良くも無いよ、きっと。」
悠里の問いかけに少しだけ迷った結果、夏は口元に薄い笑みを浮かべ答える。 そう告げるとそのまま黙り込む夏に悠里はそれ以上は何も聞く事が出来ずに手にしたガイドブックへとただ目を向けた。
*****
見慣れない靴が複数、玄関に並んでいるのを見た夏は部屋には向かわずにそのままキッチンへと向かう。 鞄をテーブルに放り出すと冷蔵庫を開きすぐ間近にあったジュースへと手を伸ばした。
「夏、お帰り。俺にも何か頂戴!」
背後から突然聞こえた声にびくり、と肩を奮わせた夏は手に持っていたはずのカップから思わず手を離していた。 ガチャーン お決まりの様に床に落ち割れるグラスを呆然と眺めた夏は割れたグラスの残骸へと手を伸ばし慌てて座り込もうとする。
「おい、動くな!・・・・・破片、飛ばなかったか?・・・・・何、やって・・・・・」
首下を掴み引きづる様に割れた破片から引き離すと同時に告げる秋紀の声に夏はこくこくと無言で頷く。
「掃除機持ってくるから、お前はそっち!」
居間へと続く入り口へと背を押されよろける夏の背後でバタバタと慌しく足音が去って行く中、ふらふらとソファーへと座りこんだ夏はこの家にいるのは当然の兄の声に動揺した自分が分からなくてただ頭を抱え込む。
「・・・・・夏、本当に怪我してないか?」
掃除機の音が止み聞こえてくる秋紀の声に夏は顔を上げるとやっと兄の顔を見上げる。
「・・・・・ごめん、俺・・・・・」
「大丈夫だから、怪我は?」
「平気。・・・・・本当にごめんなさい。」
頭を下げてくる夏に秋紀は笑みを浮かべると手を伸ばしてくる。ソファーの上、向かってくる手から微妙に体を逸らしながら見上げる夏は不安そうに眉を顰める。
「・・・・・何?」
「いや、どっか調子悪いのかな、と・・・・・夏?」
「・・・・・っれが、俺が掃除機片付けるから、本当にごめんなさい。」
秋紀から逃げる様に掃除機を持つと立ち去る夏に秋紀はその背を見送り何となく伸ばしかけた手を見る。他人行儀な弟の態度に少しだけ首を傾げるけれど頭をがしがしと擦った秋紀は当初の目的を思い出し冷蔵庫へと向かった。 所定の位置に戻した掃除機をじっと見つめた夏はそこから動こうともしないまま呆然と立ち尽くしていた。 昨日までの自分とは明らかに違う自分が湧きあがってきそうな予感が夏を支配していた。
かなりお待たせの新展開です。 修学旅行編のはずがどこで間違ったのか夏編です。しばらくお付き合いよろしくお願いします。
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