「仁科君、君に辞令が降りたから。来月からA支部に移動になるよ。」
急に呼び出され淡々と告げるその声には抑揚はあまり無く、聞いてる北都もただこくり、と頷くとまだ巧く理解できないまま席へと戻る。急な辞令に戸惑いは隠せなかった。 勤続何年、なんてベテランじゃない、入社してまだ数年のぺーぺーの北都でも知っているほど、支社はあるけれど、移動は基本的にはほとんど無い会社だった。 転勤した人が北都の働いている部署には全くと言っていいほどいなかったし、たまに欠員補充の様な形で転勤とは言わなくても、何週間か出向なら何度かあったのに、言葉と共に渡された辞令の紙を見つめた北都はそっと微かな溜息を零した。
「辞令、って・・・・・珍しいな、いつまで?」
「二、三年だって言われたけど、俺、何かした?とか思うのは俺だけ?」
「・・・・・あれ、関係してるのか?」
「あれって?」
「・・・・・この間の結婚式!・・・・・うちの元同僚の花婿、うちの取引先の息子なんだろ?」
友人、祭の言葉に北都はただ眉を顰める。まだ寒さが抜け切らない、先月、同僚の結婚式へと祭と共に数合わせで出席した。 式うんぬんは別にどうでも良い。良縁を結んだ同僚に会社からの盛大なお祝いも兼ねての派手な式だったとぼんやり、と記憶はしているけれど、中途半端に帰ったので、その式の話は記憶の彼方へと消え去っていた。というか、消し去りたい記憶だったから、詳しく思い出しもしないまま北都は頭を振ると、目の前で昼食のカレーライスをばくばくと食べる祭へとそのまま顔を向ける。
「それが、僕の転勤とどんな関係が?」
「・・・・・花婿、お前の元彼だろ? 何かばれたりとかしたんじゃねーの?・・・・・だから、とりあえずこれからより強い絆を作りたい会社側としてはお前がいたらまずい事になるかもしれないとか思ったりとかしたんじゃねーの?」
特に仕事でミスはしていないし、勤務態度も良好だから、簡単に首きりはできない、じゃあ、万が一の不測の事態を回避する為とりあえずこの会社から出せば良いかも的な?と首を傾げ答える祭に北都は眉をますます顰める。 元同僚の結構相手が自分の元恋人でした、なんて笑えない事実を会社に知られるへまはしていないはずだけど、あの日、会場を去る北都を呼び止める様、何度も名を呼んでいた花婿の姿を誰かに見られていたとしたら可能性は有りうる。 目の前にある食事を見ても当然食欲も湧かず、辞令の話を聞いてから、絶えず零れる溜息を北都は深く長く吐き出した。
好き、だから捨てて行く。新しい場所には新しい自分で向かおうと部屋の整理をしながら、北都はただでさえ少ないと祭から言われている部屋の荷物を更に軽くした。 生活に必要最低限のものがあれば、新天地ではさほど困らない。 祭の言う様な会社の思惑だとしても、別にどうでも良かった。 この部屋に帰る度、消えない思い出になかなか忘れられない恋を突きつけられた。 形として、元恋人のモノが残っているわけでもないのに、自分の部屋の中にある全ての家具や雑貨が、あの頃、二人で選んだモノだと思い出を与えるようで、本当は全部捨てて新しくしてしまいたかった。 もちろん、しがないぺーぺーサラリーマンの北都に持ち物全てを新しくするお金なんてなくて、毎日家に帰る度に突きつけられる現実に溜息しかでなかった。だから、転勤は良い機会だった。二年や三年で忘れられる簡単な恋じゃなかったとしても、思い出なんて一つも無い知らない土地で新しい自分になれば、未だに胸を痛めるこの思いが薄まるかもしれない期待はしていた。 どんなに思っても、何度過去を振り返ろうと一人よがりだと知っているから、早く忘れたいと思っているのに、目の前の思い出に触れるたびに胸は痛んだ。会社と自宅を行き来する道路も、自宅の傍にあるコンビニもスーパーも公園も二人で居た時を北都に思い出させるから、いつまでたっても癒えない気持ちを改める、だからこその良い機会だったのだ。 早く忘れるべきだと、見えない誰かに言われているそんな気がした。
*****
この際だからと、いらない、けれどどうも捨てれないものは誰かにあげてしまおう、と思い立ち、祭や友人、会社の先輩や後輩に声をかけたら、ほとんどのモノには貰い手がついた。ソファーだったり、家具だったり、転勤先の部屋は今住んでいる場所よりも狭いからだという北都の言い訳に彼らは何の疑問も抱かずに快く引き取ってくれた。 パソコンと冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、掃除機、一人暮らしに必要な最低限のモノだけを残し後は早々に処分した部屋の中はかなりすっきりしている。 後、大きなモノで残っているのはテレビやビデオ、そして部屋の奥に置いてある、セミダブルのベッドだ。 新しい部屋に入らないからと、家電製品は実家に送る事を両親は仕方なく了承してくれた。 本当はベッドも処分したかったけれど、寝る場所は大切だから、これだけは新しい場所へも持って行くつもりだった。ピンポーン、ベッドをぼんやり眺めていた北都はいきなり鳴る呼び鈴にびくり、と肩を震わせる。 ピンポーン、もう一度鳴る呼び鈴に急いで立ち上がりながら北都は誰が来たのか確かめる事なく扉を開く。 重い扉の向こう側、ちゃんと確認してから扉を開けるべきだったと今更後悔しても遅い。 あの結婚式の日、呼び止める声を無視するように逃げ出したもう一人の主役でもあり、もしかしたら転勤の原因になった人かもしれない元恋人榊涼その人が立っていた。
「・・・・・何か、用ですか?」
「引越し、するって聞いたから。・・・・・どこに?」
「どこに行こうと関係ないじゃないですか! 俺、忙しいんで帰って下さい!!」
躊躇う様に問いかける涼に拳を握り締めた北都はドアを閉めようともう片方の手をドアへと伸ばす。
「関係なくない! 俺は北都と話がしたいんだよ。」
ドアへと伸ばした手を取り、話しかける涼に捕まれた手を振り払おうとして北都は少しだけ顔を上げる。思い詰めた顔で、真っ直ぐに北都を見る瞳から思わず視線を逸らしてからも刺さる視線に眉を顰める。
「関係ないですよ。今更、何の話ですか? 俺には何も無い、あんたの顔も見たくないから・・・・・帰って、帰れよ!!」
離そうと腕を振りながら、それでも離そうとしない涼に頭を振り、言葉をつっかえながら、それでも告げる北都の耳に微かな息を吐く音が聞こえる。
「一方的な言葉だった。 だけど、そうでもしないと、俺は北都を引き摺ると思ってたんだ。」
「・・・・・だから、俺は何も聞きたくないって!」
「好きだよ、忘れるなんて出来なかった。 もう、君より好きな人は絶対に出来ない・・・・・」
唇を噛み締め、無意識に逃げようと体を逸らす北都を腕を掴んだまま引き寄せた涼は腕の中にぎゅっと抱きしめる。それでも身動き取れないなりに逃げようとする体を抱く腕に更に力をこめた涼は自分の肩あたりにある北都の頭へとそっと唇を押し付ける。
「俺を捨てたくせに、今更、何言って・・・・・俺は、もうあんたなんかいらない、だから・・・・・」
「・・・・・それでも、俺には必要なんだよ。」
拒む声を遮り告げる涼に北都は肩を揺らすとそのまま言葉を失くす。しっかり、と抱きしめられた腕の中、必死に忘れようとした温もりに包まれて北都は抵抗する気力が根こそぎ剥ぎ取られる気がしていた。
頭ではちゃんと分かっている、この温もりも香りももう自分のモノですら無いのだと、なのに抱きしめる腕にすっぽり、と包まれた体は喜び、嗅ぎ慣れた匂いに安堵する。いけないと分かっているし、何度も頭の奥で理性が警告するのに、北都は近づいて来る涼にただ瞳を閉じる。すぐに触れてくる慣れた温もりは深く深く押し付けられていき、立っていられずに背へとひっそりと回した手で服の端っこを掴んだまま、北都は堕ちていく自分を感じた。 目の端に光るソレがなんなのか、確かめなくても分かる他人のモノであるはずの証から視線を逸らした北都は与えられる温もりに縋りつくように今度はしっかりとその背へと回した手にぎゅっと力をこめた。 会話も無く、箱の散らばった部屋の中、ただ目の前の温もりに縋りつく。頭の奥で鳴り響く警告を無視して、瞳をぎゅっと閉じたまま、与えられる熱に酔う。濡れた音が響き渡り、微かな喘ぎさえも封じられたまま、体内に熱い迸りを感じながら、北都は意識が沈んでいくのを感じていた。
爽やかな朝、薄っすら、と開いた瞳で部屋の中を見える範囲で見回し、変わらない箱の山を見つめ、やっぱりあれは夢だったと溜息を零した北都の耳にドアの開く音がした。入って来た人へと顔を向け、慌てて起き上がった北都は体が重くて久しぶりの慣れない感覚に眉を少しだけ顰める。 「おはよう、大丈夫? 久しぶりだったから、ごめん、無茶した。」
起きあがろうとして、ベッドから降りる事すら出来ない北都の元へと近づいた涼は身を屈めるとベッドの端へと座り、手を伸ばしてくる。ぎしり、と軋むベッドの音、頬に触れる温もりに北都は顔を上げるとぼんやり、と涼を見つめる。
「・・・・・どうして、いるの?」
「気を失う様に眠ったから、起きるまでは、とね。」
体、平気?顔を近づけ問いかける声が鼓膜を刺激する。低くて甘い声に体中が震える。そして、夢ではなくこれが現実だったのだと思い知らされる。罪を犯したのに、朝は変わらない。温もりに瞳を閉じる北都へと更に近づいた涼がそっと唇へと触れてくる。変わらないはずの朝が確かに変わったのを感じながらも北都はずっと瞳を閉じたままでいた。
*****
転勤先に着いてから、慣れない人と仕事に体中が疲れていた。仕事は変わらない、なのに、場所が変われば少しづつその方法だって、今までと同じとはいかない。片付かない部屋を眺めながら取り出した携帯を見つめた北都は新着メールを開く。 『PM9時 部屋に行く』 短い言葉というより単語の羅列を眺めた北都は一人きりの部屋でそっと自嘲の笑みを零した。 終わりに出来なかったのは恋じゃない。離れられなかったそれは恋なんて綺麗な響きを通り越してもはや執着に繋がっている気がする。誰一人幸せになれないソレを正しいとは言わないなのに、溺れている。 どこまでも堕ちていくその先にはただ絶望が広がっているだけだと分かっていても一度は離したその手を握ったあの日から、北都はもう戻れなかった。 手に持つ携帯を握り締めると堪える様に瞳を暫く閉じた北都は立ち上がると、仕事ばかりで、荷物も満足に解いていない部屋の中を眺め、苦笑を浮かべた。
「ここに来るより、ホテルの方が良かったんじゃないの?」
「・・・・・何で? ホテルは寒々しくて嫌いだよ。それにここの方が北都を深く感じられる、だろ?」
腕の中から顔を上げ問いかける北都をそっと抱きしめなおした涼は笑みを浮かべ呟く。まだ片付いてはいないけれど、確かに北都の温もりが微かにだけど存在してきた部屋を眺めると涼は腕の中、静かに納まったままの体へと顔を近づけた。 重なる唇、抵抗もなく受け入れる北都はそれでも涼の腕の中、びくり、と一瞬肩を震わす。気づいていたけれど、抱き寄せそのまま、キスを続行させた涼は腕の中の体を弄りはじめた。くたり、と力の抜けた体の隅々にまで手を這わせる涼に北都はただキスだけをせがむように絡めた舌を放さない。言葉もなく床に沈み、衣擦れの音が濡れた音へと変わる頃、微かな喘ぎ声だけが部屋を覆った。
行為の後、ベッドで頭を緩やかに撫でてくれる手の感触にほんの束の間、意識が遠のいていた北都の瞳に少しづつ輝きが戻ってくる。少しだけ顔を上げ、頭を撫でる涼を見上げた北都に気づいたのか笑みを浮かべた彼は顔を近づけ、そっと唇へと触れるだけのキスを落とす。熱に上せた時間とは違い、穏やかな時間。なのに、寂しく感じるのは、北都の良心が悲鳴を上げているからなのか、分からず曖昧な笑みを浮かべる北都を涼は何も言わずただ抱き寄せる。
「もう少しだけ待っていて。 必ずオレは北都の傍にいるから。」
そっと耳元に囁かれた声に鼻の奥がつん、と痛む。 潤みそうになる目を何度も瞬きして堪える北都を涼はただ優しく抱きしめた。 罪を犯しているのだと気づいているのに、それでも離せない、離れられない人の背へと手を回した北都は胸元へと顔を擦りつけた。零れそうになる涙を見られないために瞳を閉じ、更にきつく顔を押し付けた北都の頭を優しく撫でる手の温もりがただひたすらに愛しかった。 忘れられなくて、離れられなくて、愛しさだけが募る。ぽとり、とシーツへと落ちた涙は未だに少しだけ残っている良心からなのか、今だけが幸せだという心からなのかは分からなかった。 撫でられる頭に感じる温もりが眠気を誘う。だから、北都は涼へと更に身を寄せる。抱きしめる腕の温もりだけが現実だった。
- end -
2009
随分迷ったのですが、結末は曖昧です。この先は想像して下さい。
前作はこちらから。
odai top novel top
|