ここ数日、もうすぐ出来上がる建物に付けられた看板を見つめて、紫は微かに眉を顰める。 逃げる様に後にした町をなるべく思い出す事の無い様に、と選んだこの町で馴染みある看板を再び目にする事になるなんて思わなかった。 あれから二年、歳月は人を変える、と言うけれど、紫は自分を分からないからそれについては何とも言えない。 日雇いのバイト生活を止め、小さいけれど一応は正社員の職を見つけた新天地で暮らし始めて二年、看板だけで痛む胸をそっと抑えた紫はくるり、と背を向け歩き出した。 学生の時から始めた一人暮らし、その最初の住処で出会った恋は紫に大きな傷を残した。 二股の挙句捨てられた相手、それが件の看板と縁のある人。あの看板先、たまたまバイトをしていた紫は正社員の彼と知り合い、恋をした。 だけど、その恋は紫の中に大きな傷を残しはしたけれど、実にあっけない幕切れだった。 相手の男には別に付き合う人がいたらしく、その際の深い経緯を知りたいとも思わなかったから聞いたりもしなかったけれど、要は子供が出来たから、と紫は捨てられた。 引きづるのは良くないし、酷い男だったで忘れられるはずだと思っていたのに、時が時間が失恋の傷を癒すどころか、紫は未だにずるずる、とその傷を抱えたままだった。 同性しか好きになれない紫の性癖では、また同じ事があるかもしれない、そう思うと、あの失恋でどうも恋に踏み出す気力を根こそぎ剥ぎとられた気がする。 のんけに恋をしないで、同じ性癖を持つ人を、と思っても紫にはのんけかそうでないのかを見極める能力なんて持っていない。 誰かを好きになる、その事が恐怖に変わったトラウマを克服したいと思いながらも、新しい生活の中には恋の一つも入れる事が出来なかった。 あっさり、と終わった恋できっと相手の記憶の片隅にも残らないそんな薄っぺらいものだったとしても、紫の中には未だに消えずに疼く傷が残っていた。
祝、新規開店と書かれた大きな花輪が飾られた店の前を通りかかった同僚が後ろを歩く紫へと振り向く。
「なぁ、昼・・・ここで食わん? 今日、開店だってさ!」
「ラーメン屋に行くんじゃなかった? ここ、ファミレスだよ?」
「良い、良い! 腹が空いている時は何でも美味い!」
店の人が聞けば失礼に当たるだろう事を堂々と店の前で告げる同僚に他の仲間が口を抑えつつ慌てるのを横目に紫は拳をそっと握りしめる。 中に入る事が決まったらしく呼びかける同僚の声に答えた紫は嫌がる内心を気づかれる事なく常と変わらない顔で足を前へと押し出した。
「オレ、何しようかな?」
「お前は? 俺はこれなんか」
「僕は、日替わりかな?」
「同じので良いかな」
総勢4人で喫煙席へと案内してもらい座ると一斉にメニューを開きながら話し出す同僚達に相槌を打ちながらも紫はそっと店内を見回す。 たった二年では変化が無いのか見慣れた制服に身を包む店員達が、新しく開店したからでもあり、更にランチ時の最も忙しい時間だからなのかせかせか、と少しだけ小走りで店内を端から端まで引切り無しに行き交うのを眺め、見覚えある人がいない店内にまだ油断はできないながらも、そっと胸を撫で下ろす。 全ての店員をチェックするなんて面倒な事は紫には流石に出来ずにお冷へと手を伸ばし、いつの間にか緊張で乾いていた喉を潤わせた。
「失礼いたします、日替わりランチのサラダをお持ちいたしました」
注文を頼んだのは女性店員だから、その高い声と違う低い声に紫はびくり、と肩を震わす。 耳に心地良い甘いテノール、どこかで聞いた覚えのあるその声を紫は確かに知っていた。 元々住んでいた町から遠く離れた町へと越して来たのは二年前。 元の場所からは電車で5時間かかる遠くの町へと住処を変えたのは、偶然出会うなんて事をしたくなかったから。接点がどこにもない、そんな場所を探してきたそのはずなのに、顔を上げる事が出来ずに俯く紫の目の前へと置かれた日替わりランチにそろそろ、と思わず顔を上げた紫はメニューを確かめる様に注文票を見る横顔を見つける。
「では、メインをお持ちいたしますね」
爽やかな笑みを向け去り際、店員は紫の顔を見て微かに目を開く。だが、仕事中だからなのか、別の理由があるのかそのまま一礼すると颯爽と歩き去る店員に紫は来るんじゃなかった、と微かに眉を顰める。 食事をしても常に気にかかるたった一人の視線。 今更だ、二年も前の話だ、と思いきるには紫は吹っ切れていなかったし、疼く胸の痛みを堪え同僚達の話を聞きながら適当に相槌を打ちながら、早々に立ち去りたくてしょうがなかった。 まともに顔を見たいとは思わないし、話したいとも思わない。ただ他人だと、店ですれ違う客の一人だと思ってくれるならそれが紫には都合が良かったのに、紫の思惑通りに事が進まないと気づいたのは食事を終え会計を待っていた時だった。
「久しぶり、だね」
一人づつの会計で構わないと言われ、順番を待っていた紫は背後から掛けられるその声にびくり、と肩を揺らす。
「・・・ご無沙汰してます、お元気そうで」
微かに引き攣りそうになる口元に気をつけながら振り向き答えた紫は目の前の男、勝利を認め少しだけ眉を顰める。
「今はここに住んでる?」
「そうですけど、それが何か?」
親しげに話しかけてくるから心持ち顔を避けながら会話を終わらせたいのだと雰囲気だけでも醸し出して見せる紫に勝利は少しだけ顔を近づけてくる。
「せっかくの再会だし、ゆっくり話したいんだけど・・・良いかな?」
「・・・・・仕事がありますので、今は昼休みなだけですし」
「オレも仕事中だし、終わるの何時? 終わったらここで会おう」
曖昧な言葉で逃げを打つ紫に構わず笑みを向けると有無を言わせず予定を組む勝利の言葉に、紫は黙って頷くと回ってきた会計の順番に気づき急いで会計を済ませると逃げる様に同僚の待つ外へと出て行く。
仕事中も気になった、このまま聞かなかった事にしてあの店には二度と足を運ばなければそれで良い、何度も考えた。 なのに、頷いたからには約束を破るわけにはいかなかった。 真面目であまり冗談の通じない、人との距離の取り方も融通もきかない紫にはそれは出来なかった。 店の入り口を眺め、手にした鞄を握りしめ紫はこくり、と緊張の為溢れ出した唾液を飲み込み、喉を鳴らすと前へと足を踏み出した。
「来てくれたんだ、もう少しでオレも上がるから、こっち!」
入口を入ってすぐに裏から出てきた勝利に気づかれた紫は笑顔で席へと案内する彼の後をとろとろ、とついていく。
「何か頼む?」
「・・・・・コーヒーをひとつ」
「分かった」
頷くと去る勝利の後ろ姿をぼんやり眺めた紫は思わず大きな溜息を零す。どう考えても再会して嬉しい感覚なんて紫には存在しない。 仲良く話したいネタなんてどこにも持ち合わせていないし、そもそも、振られた相手だ。 精々、別れた理由にもなる子供は元気ですか、ぐらいしか言える事は無い。それも、かなり自分的に自虐ネタだ。 嘘でも会わなかった二年間で、好きな人が出来たし、幸せに暮らしてますぐらいは言っても良いだろう。 かなりの強がりだと分かっていても、いつまでも過去の恋を引きづる自分でいたなんて思われたくない。それで行こう、と一人頷く紫は足音に顔を上げる。
「コーヒーをどうぞ、ここじゃなんだから、移動しないか?」
私服に着替え、手にしたコーヒーを渡した勝利は紫の目の前の席に座ると店内を見回しながら呟く。
「構わないですけど、移動してまで話したい事はありませんけど?」
目の前の相手を目にした瞬間、自虐ネタも自分を良く見せる為のネタもどうでも良くなり呟く紫に勝利は苦笑を顔へと浮かべる。
「オレには会いたくなかった?」
問いかけてはいるけれど、確信しているかのその声に紫は何も答えられずに俯く。面と向かって本人に会いたくなかった、と言えるほど無神経な人間では無いし、そこまではっきりモノが言えるそんな性格もしていなかった。 否定も肯定もしないまま黙り込む紫の目の前勝利はがたり、と椅子の音をたて、立ち上がる。
「場所、移動しよう・・・オレには話したい事があるんだ」
紫を促し店を出た勝利は後ろを振り返る事なく駐車場へと歩いて行く。二年前から愛用していた勝利の車はあの頃と変わらない姿でそこにあり、助手席のドアを開けた勝利は無言で紫を見つめる。
「あの、立ち話で終わりませんか?」
「・・・都合が悪い? 予定がある、とか?」
「その・・・僕は・・・・・」
狭い車内で二人きりなんて紫には耐えられない。だから、足を止める紫に勝利は微かに眉を顰めるけれど、止まったままの足はやっぱり動かず相変わらずはっきり、と断る事もできず、ただ俯く紫の姿に勝利は助手席のドアを開いたまま微かに溜息を吐く。
「オレの車に乗るのは嫌? オレと話すのも、本当は傍にいるのも嫌なわけ?」
「・・・・・そんな事は・・・・・」
「じゃあ、乗れよ! 立ち話で終わるならわざわざ誘わないし、嫌なら断れよ、断るぐらい出来るだろう?」
否定的な勝利の言葉に思わず答え紫は唇を噛みしめる。畳み掛ける様に告げる勝利の言葉に紫はとろとろ、と車へと近づいていく。助手席へと乗り込む紫の目の前ドアは閉められ、すぐに勝利が運転席へと乗り込んでくる。
「・・・あの、どこへ?」
「どこか希望があるなら聞くけど、何かある?」
すぐに走り出した車の中問いかける紫の声にすぐに答える勝利。少しだけ常より低く早口で告げる勝利の声に紫はふるふる、とただ頭を振る。 そんな紫の様子を見ていたのか勝利は車の中でその後一切話しかける事なく、紫も何も言えずに流れる景色を眺める。気づまりな狭い車内の雰囲気にただ鞄を握りしめた紫は唇を再び強く噛みしめる。
*****
視界が少しだけ暗くなり俯いていた顔を思わず上げた紫は車が立体駐車場へと入っていくのを確認して、この近辺にあるだろう立体駐車場を何個か思い浮かべる。 「オレが泊まってるホテルの駐車場 他の場所良く分からないし・・・」
車を空いてるスペースへとするり、と入りこませ止めた勝利の発した言葉に紫はそろそろ、と顔を向ける。
気まずい沈黙が車内を覆い、紫は顔を上げたままこくり、と溢れ出す唾液を飲み込む。
「特に話す事も無いんですが・・・子供、元気ですか? 大きくなりましたよね?」
「・・・・・聞いてどうするの?」
沈黙に耐え切れず、自虐ネタだと分かっていても、軽い感じを心掛けながら問いかける紫への勝利の反応は思っていたよりも薄く、触れてはいけない話だったのかと思わず唇を噛みしめる。
「ここまで来てもやっぱり、話したい事なんてありませんし、他に何かありますか?」
「とりあえず、降りない? 車の中なんて狭すぎだろ?」
「・・・・・ここで良いです。 明日も仕事なので、時間もそんなにありませんし・・・話って何ですか?」
車内の気詰りする雰囲気も嫌だけれど、広い空間で顔を見合わせるのも紫は嫌だった。顔を見ない隣同士なら、何とかなる。そう思っての紫の言葉に隣りで勝利が座席に背を深く押し付ける気配を感じる。
「嫌なら断れば良いのに・・・・・本当は会いたくない相手なんだろ、オレは」
苦笑と共に告げる言葉に肯定も否定も出来ずに黙り込む紫の隣り、勝利は微かに溜息を吐く。その音が妙に大きく聞こえるのは狭い車内だから、そして、その狭い車内に二人きりだと気づいた紫は薄暗い車外へと目を向ける。
「あの、話って何ですか?」
「・・・用件聞けば帰る?」
「もちろん、そんなに重要な話が僕とあなたにあるとは思いませんが、僕にも都合があるので」
目線を合わせる事の無い会話はどこか空々しい。意味の無い会話の羅列は淡々と続くけれど終わりもまた見えない。 気詰りな空気の漂う車内で続ける会話じゃないと分かっていても、紫だけの意志ではどうする事もできなかった。早く、この意味の無い会話が終わる事、すぐにでも願うのはそれだけだった。
「都合って、明日も仕事だから、それだけ?」
言外に他の予定なんかないだろ?と言われている様で紫は鞄を持つ手を少なからずきつく握る。握っては放してを繰り返しているせいか、取っ手の後がついている気がするとどうでも良い事を考え紫は車外からやっと勝利の方へと顔を向ける。
「話を聞く気はあります、だから、言いたい事があるならどうぞ! 世間話以上の話をするほど、僕らは親しくありませんでしたよね?」
一応は元恋人だと認識はある、けれどそれだけ。体の関係は合っても、思えば、付き合っている間も勝利にとって紫は詮索しない都合の良い相手で、紫もまた深入りはしたくなかった。勝利は紫のバイト先の正社員、それが関係性を表す最も適した言葉で、そこに付随した体の関係があったから、恋人だと思っていた。だけど、勝利の裏切りはその関係が恋人では無くただの都合の良い相手なんだと紫を貶めた。そんな相手と仲良く話したいとは紫にはやっぱり思えなかった。
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三話目がありますので中編となりました。じれじれすぎて書いている私がむきーっ、となっていてしばらく模索してました。次は早く上げれる事を祈りつつ 20130624UP
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