君恋ふる涙

■1

冬の冷たい風が顔を撫でる中、目の前にいる人へとただ笑みを浮かべる東雲幸喜(しののめこうき)に泣きそうにくしゃり、と歪めた顔をすぐに引き攣る様に笑みを返した彼、遠野可月(とおのかづき)はゆっくりと背を向けた。掛ける言葉も見つからずにぼんやりと見送る幸喜の目から次第に離れていく後姿は降り出してきた雪のせいでちらちらと霞んでいった。
「恋」を知らない幼い幸喜を好きだと告げた人は大事な友達だった。あの冬の日、幸喜は可月という大切な友人を一人喪った。幸喜の幼さゆえに。

むくり、と起き上がった幸喜はぽろぽろ、と頬を伝う涙に気づく。またか、とそっと溜息を零すと顔を拭い起きだした幸喜は夢のせいできりきり、とまだ痛む胸を抑えながら歩き出す。取り戻せない過去だと分かっている。それなのに、月日を追うごとに後悔している自分への戒めの様に夢の中は鮮明にあの日の出来事を伝える。あの冬の日から三年。恋を知らなかった幼い子供はもう高校二年生へと成長していた。背も伸び、あの頃より少しだけ細くなった自分の顔を鏡に映した幸喜は鏡に向かって微かな苦笑を零す。体も心も成長したけれど、今更遅いのだと言い聞かせると顔を洗うために蛇口へと手を伸ばした。

「幸喜! おはよう、掲示板見た?」
「・・・・・おはよう、見たよ。 また今年もアレですか・・・・・」
「そうです、アレの時期。」
背後から挨拶にしては激しく過剰なスキンシップをしてくる友人をちろり、と見た幸喜は眉を顰める。昇降口に入る前に置いてある掲示版には学校や寮の行事連絡が事細かく書かれている。今朝も掲示板の前にたむろする人の山が有り、幸喜にもその理由はすぐに分かった。菖蒲学園、名前は綺麗だけど中高一貫の高校からは全寮制になるという男子校。それがこの学園で、中等部からここにいる幸喜には年間行事もすぐに分かるから掲示板をわざわざ覗き込むマネなんてしないけれど、野次馬はどこにでもいる。全寮制で娯楽の少ない学園の中では行事は盛り上がる絶好の機会の場とも言えた。
友人とそのまま肩を並べ歩いていた幸喜は近づいて来る人影に微妙に眉を顰める。ちょっと、用をと言いかけた幸喜の言葉を遮る様に「東雲くーん」と猫撫で声で呼びかけてきた二人に幸喜は頭を抱え溜息を吐き出した。友人と別れ、引きづられるように連れて来られた一室ではいつ終わるか分からない押し問答が続けられていた。
「嫌です、って俺何度も言いませんでしたか?」
「・・・・・頼むよ、東雲! もう朱雀寮は東雲しかいないんだって・・・・・・」
「でも俺は嫌ですよ! 『姫』なんて好んでやりたいなんて誰が思いますか?」
「東雲、頼むってマジで。 外部生の寮、青龍にいつまでも横柄な態度取られるなんて嫌だろ?」
別に構わない、とそっぽを向く幸喜に必死に頭を下げてくるのは寮長と副寮長。高等部、中等部2つの部が別れてするイベント姫祭、それが今朝掲示板に書かれていたイベントの名前。高等部では代々四つある寮から、代表である『姫』を選び、その年の一番になった『姫』の寮には特典が与えられるという寮の威信をかけてのイベントになっている。去年は外部生のみしかいない青龍の『姫』が選ばれた、というか、ここ数年青龍のみからしか『姫』は選ばれていないらしい。
「俺が出たって、何も変わりませんよ?」
「変わるだろ? 何たって中等部で三年間『姫』に選ばれたの東雲だろ?」
「・・・・・だからって、あっちとこっちじゃ、選び方が違いますし。」
「これでダメだったら二度と誘わないから、マジ頼みます! 朱雀を助けると思って!!」
否定の言葉しか言わない幸喜に必死で喰らいついてくる二人に根負けし、渋々と頷いた幸喜はそっと重く長い溜息を零した。


*****


教室に入ると一瞬空気が変わった気がして幸喜は目を細める。そして意味が分かった気がして表情一つ変えないまま自分の席へと歩き出す。
「東雲くん!」
少し男にしては甲高い声に呼びとめられ足を止めた幸喜のすぐ傍に近寄ってきたのは笹原棗(ささはらなつめ)。去年の『姫』。外部入学の彼は入学してきたその日に後援会なるものが発足される程見目麗しい。綺麗ではなく可愛い部類に入る棗は性格も可愛いと去年はダントツで『姫』に選ばれた。そして、彼に対する逸話がもう一つ。入学試験を受けに来た日に一目惚れした相手を探しにこの学園に来たと公言した棗はその相手を見つけだし、恋人の座へと収まったその相手が。
「・・・・・何?」
「あの、朱雀からは東雲くんが出るって聞いたから、よろしくね。」
頭を揺らすたびに揺れる髪はふわふわで、柔らかそうだ。大きな瞳が見上げてくる、首を傾げにっこり、と笑みを浮かべる姿も少女と見紛う限りだと言ったのは誰だっけ?可愛い、なんて自分には絶対似合わない言葉を簡単に手に入れる事の出来る棗をつい羨ましそうに見そうな自分を堪えた幸喜はただ笑みを返す。
「・・・・・よろしく。」
今朝やっと頷いたばかりのはずなのに、噂だけはのぼっていたのだろうか。疑問に思いながらもただ言葉を返した幸喜はすぐに体を背けると席へと歩き出す。
「棗ちゃん、幸喜はああいうヤツだから気にしないでね?」
「・・・・・そうそう。今年もやっぱり棗ちゃんだよ、『姫』ってぴったりだし。」
後援会の人間なのかすぐに棗に纏わり言い出す彼らに棗は緩く笑みを返す。そして教室に入って来た人物を見つけると花が咲いた様に満面の笑みを浮かべると嬉しそうに駆け寄っていく。
「おはよう、可月!」
「・・・・・ああ、おはよう。 何でいるの?」
「朱雀の姫に挨拶に来たんだ。 だけど、可月は僕の応援してくれるよね?」
「ああ、そうだな。」
甘く蕩ける様な笑みを浮かべたまま話す棗に可月は淡々と言葉を返していく。そんな二人に割り込む様に後援会の二人が割り込んで、もうすぐ朝礼だから、と棗を連れ去って行く。嵐が過ぎた教室で可月はいつもと変わらないまま席へと歩き出す。
棗の一目惚れの相手、それは可月の事。今でも思い出す鮮やかな冬の日。幼い幸喜が別れを告げた一番の親友で恋人だった人。もう遅すぎる過去の事だけど、棗の努力の結果、可月とは学園中が認める公認の恋人同士になったのは去年の姫祭の事だった。

ちりん、ちりん、と動く度に鳴る鈴の音に眉を顰めながらも幸喜は着飾られていく自分をぼんやり、と眺める。姫祭まで一ヶ月も切るとお披露目の為に本当に女装させられるのが慣わしだった。姫祭が行われるのは折しも夏休み半ば。寮に残る人間の間でちょっとしたお遊びで始められたソレは今じゃ学校が認める立派なイベントだった。
「で、この格好は?」
「和装だろ、朱雀は今回和装で攻める事にしました。」
メイクと衣装担当を受け持った人がにっこり微笑み告げる後ろでアシスタントに選ばれたのだろう寮生がこくこくと頷いている。
「・・・・・学校では?」
「既に許可は貰ってるから、これよりも軽く動きやすいアレンジを加えた和装に決まってる。」
呆れた幸喜の呟きに胸を張って答える彼はそう言うと手の届く所に置いていたのだろう、普段の生活用を取り出した。今着ているのが首筋にチョーカーしかも鈴付き、髪はロングのウイッグを2つに分けて飾りをつけている。こちらもちりんちりん、と鈴がついている。着物の様な作りになっているけれど、アレンジしたのか、普通の着物とはちょっと違う。あえて言うなら、昔の花魁が着ていた様な感じ。色気も何も無い幸喜が着ているのだからかなりソフトにはしているけれど、着ているだけで色々なものがかなり重い。
「動きやすいって、それ、下には何履くの?」
「・・・・・ズボンは履いて良いよ。だけどせめて見えないぐらい短いので宜しく。こっちも用意しといたよ。」
ジャージ素材のズボンは半端な丈だけど、履かないよりはましだろう。幸喜は色々説明してくれる声を聞きながら、明日からの自分を想像して深く大きな溜息をつくしか出来なかった。

『姫』候補に選ばれた人間のみが制服ではなく寮の看板を背負うような格好をするのは一ヶ月。化粧して短いながらも髪を結い、西洋風のドレスに身を包むのは玄武、こちらも洋装だけど、寮の冠でもある白をかなり意識しているのか、白いドレスに赤いポイントをあしらった白虎、そして青龍も和装だった。朱雀の着物の様にアレンジ加える事なく後援会がびったり付き従う姿に目を奪われる学生はかなり多かった。
「被りましたね、姫」
「・・・・・うるせえよ」
本番用よりもかなり簡略化しているけれどウィッグと首のチョーカーはそのままの幸喜は机に座ったまま唇を尖らせる。長い髪を弄ぶ友人達を睨み追い払いながら幸喜は溜息を吐いた。
「朱雀の姫って、東雲?」
「あれ? 知らなかったの、可月。 可愛い君の姫には負けるかもしれないけど、同じ朱雀ならうちの姫もよろしくね。」
いきなり頭の上に振ってきた声にびくり、と肩を揺らした幸喜に気づかないまま友人、丹羽知彦(にわともひこ)が笑みを浮かべながら告げる。その声に笑みを浮かべる気配がして顔を上げた幸喜が身動きするとちりん、と鈴の音が響く。
「・・・・・重くないの、それ?」
「かなり、重いよ」
「『姫』だって噂、本当だったんだ・・・・・」
首を傾げ問いかける声に苦笑して答える幸喜のウィッグを手に持ち呟く可月のその姿に思わず早く鳴りそうな胸の音を気づかれない様ぎゅっと拳を握り締めた。


*****


ちりん、と歩く度に鳴る鈴の音がどうも女々しく聞こえながら移動教室の為に歩いていた幸喜は近づいて来る人影に顔を上げる。
「何かシンボルみたいだな、その鈴。」
同じクラスなのだから、移動教室が同じ場所でも別に不思議な事じゃないのに、突然隣りへと近寄ってきて笑みを浮かべ話してくる可月に幸喜はそうかな?と首を傾げ呟く。そうしながら、気づかれない様にそっとほんの数ミリ離れるのも忘れない。
「そうだよ。 鈴つけてるのなんて、朱雀の姫ぐらいだぞ?」
「・・・・・まぁ、俺は完全にあの人達のおもちゃになってるからね。」
笑みを返しながら幸喜が頭に思い浮かべるのは専属スタイリストだと胸を張る一つ上の衣装担当の先輩、友永唯心(ともながゆいしん)の顔だった。どこでそんな技を見につけたのか是非聞いてみたい、だけど聞くのが怖い唯心は見た目はとても器用な人には見えない。大柄でどっちかというと王様タイプ。高校生のはずだけど、一つどころかかなり上に見えるほど老けてる。
「何か、楽しそうだな。 姫に選ばれたら何か望むの?」
「・・・・・いや、別に何も・・・・・ああ、朱雀だからって俺の応援しなくても構わないよ。 遠野には可愛い恋人がいるんだし、そっちを応援するのが当たり前だって分かってるから・・・・・」
一人、苦笑する幸喜は可月の声にはっとなる。そういえば隣りにいたのだと気づいて、言葉に詰まりながらも思ってもいない事をつらつらと呟く。そんな幸喜に可月は僅かに眉を顰めるとそうだな、と呟いた。それきり会話もなく、移動教室までの道のりが遥か遠くに感じるほど重い空気が流れ、幸喜は自分の失言に唇をひっそり、と噛み締めた。苦い唇の味に口紅なんてものがついているんだ、とこっそり、と後で後悔もした。

不機嫌になった理由も聞けないまま、それきり会話という会話も無いまま、同じクラスなのに全く話もしない状態が続いたある日の朝。下駄箱の中にはありきたりだけど一通の手紙。しっかり自分宛に名前は書かれているけれど差出人の無いその手紙の封を開け中を見た幸喜は一瞬眉を顰める。指先に走った痛みとぽたぽたと床に落ちる自分の赤い血。
「幸喜! 何やってる、保健室!!」
ぼんやり、とソレを見ていた幸喜は叫ぶ声に肩を震わせる。ぽたぽた、と決して量は多くないけど止まらない指先の傷口にハンカチを手早く巻くと有無を言わせず手を引く可月の姿は瞬く間に噂になった。連れ込んだ保健室でのあれこれをも想像された噂を幸喜が聞いたのはその日の昼の休み時間の事だった。
学食のランチを口から吹き出す幸喜に知彦は備え付けのティッシュを渡しながら苦笑する。
「そんな事実は無い?」
「あるわけないだろ? 遠野はただ怪我の手当てをしてくれただけ、だよ!」
「・・・・・青龍の『姫』の彼氏を朱雀の『姫』が横取りか?と結構大げさにされてたけど?」
「無い、無い! どうしたら良いんだろう、遠野にも笹原にも悪い事した。」
俺が怪我しなければ、と頭を抱える幸喜に知彦は頑張れ、とその肩を軽く叩くだけだった。
がやがやと騒がしかった食堂が一気に静まりかえったのはそれとほぼ同時で思わず顔を上げる幸喜の前、知彦は僅かに眉を顰める。
お付き役でもある後援会の二人を引き連れた噂の青龍の『姫』こと笹原棗が姿を現した。
ゆっくり、と歩く姿、お付きの共を従えてなんて本当に本物の『姫』と思わせる姿だ。幸喜には絶対に真似できないそんな姿のまま棗が近づいてくるから、知彦へと目を向けた幸喜は友人が常には無い真剣な顔をしているのに思わず背筋を伸ばした。ちりん、と涼やかな鈴の音が静まりかえった食堂に大きく響く。

「こんにちは、東雲くん」
ぴん、と伸ばした背筋でにっこり、と笑みを向ける棗にぞくぞくと背筋に悪寒を感じながらも幸喜は釣られた様に笑みを返す。
「僕に何か言う事ありませんか? 例えば可月の事、とか。」
首を傾げ問いかける棗に幸喜は彼が噂の真相を確かめにわざわざこんな場所迄来たのにやっと気づいた。微かに息を吸い込んだ幸喜は釣られた笑みを顔に貼り付けたまま更に深く笑みを浮かべる。
「遠野には迷惑かけた礼はとったつもりですが? 理由なら遠野の言った事が全てです。 それとも笹原は恋人の言葉よりも噂を信じる、と?」
慇懃無礼だと承知で吐き出す幸喜に棗の顔色は悪くなっていく。可愛いをたっぷり、と表現できるほどの自己顕示欲の現れの証拠でもある真っ向から人を疑う視線が幸喜は気に入らなかった。『姫』だと煽てられても所詮は外部生の笹原のその態度に幸喜の中の何かが切れていた。
「・・・・・お前、棗さんに失礼じゃないか?」
「そうだよ、朱雀の『姫』は仕方なく受けたんだろ? 去年も満場一致で『姫』に選ばれた棗さんの方が偉いに決まってるだろ?」
お付きに従えていた二人が身を乗り出し口を出してくる中、幸喜は音を立てて椅子を引き立ち上がる。
「それは、すいませんね。育ちがなっていないもので、急場の『姫』で悪かったな! だけど、俺は本当の事を言っただけだ。去年の『姫』だから何? ただの学生だろ?」
お付きの二人を睨み付けると吐き出した幸喜はそのまま歩き出す。苛々と胸の中を渦巻く怒りが何なのか分からないままずんずんと歩き出した幸喜のその背を棗はただひっそり、と睨み付けていた。


君恋(きみこ)ふる涙で「君が恋しくて流す涙」みたいな訳になるそうです。
タイトルとはょっと遠い世界ですが必ずそちらへ向かいますのでお待ち下さい。
まずはバトルってもらいましょう!

top next