「・・・・・どうして・・・・・」
「信じてるなんて、嘘くさいから止めとけよ。本当は気づいていたんだろ?」
戸惑いながらも必死に問いかける少年の目の前の男は濡れた髪を掻きあげると嘲笑を口元へと浮かべるとぽつり、と呟いた。 「恋人」だと信じていた。 何度も愛を確かめあった、そう思っていたのに、それさえも嘘なのか呆然と立ち尽くした少年は現実をまだ直視できる余裕すらないのに、追い討ちをかけるように降ってわいた現実は少年にはあまりに過酷だった。
「ねぇ〜誰?」
甘い声、目の前の男に寄りそう彼女の姿はこれまた何とも扇情的な、大きめのシャツに身を包んだだけで、シャツの下からは伸ばされたすらりと長く細い素足が出ている。 着崩れたシャツ一枚の彼女、濡れた髪、上半身裸の男、目を伏せたい現実にがらがらと心の中で何かが音を立てて壊れていく。
「・・・・・親戚の子、かな?・・・・・もう少し、あっちにいろよ。」
「いやだ、まだその気?」
クスクスと笑みを零す彼女に笑みを向けた男の視線がもう一度少年の下へと戻る。
「・・・・・ごめんなさい、失礼・・・・・しました。」
深く頭を下げ低く搾り出した声、そのまま向きを変えると真っ直ぐに玄関へと向かう。 鼻の奥がツーンとして痛むのを息を堪え我慢したまま急いで靴を履くと少年はそのままドアへと手をかける。
「これに懲りたら、少しはまともな相手を見極めれば。」
背後からの声にぎゅっと唇を噛み締めた少年はそのままドアを開くと部屋を出て行く。 ばたり、と閉まったドアの音と同時に溢れだす涙に構う事なくバッグの中から取り出した鍵をドアについているポストへと流し込むと少年はそのまま背を向ける。 かちゃり、と聞こえた小さな金属音がやけに耳に響いたけれどそのまま歩き出した少年は涙を乱暴に腕で擦ると階段を駆け降り、二度と来る事の無い場所を見向きもしないままひたすら前だけを見て歩き出した。 歩き始めてからじくじくと疼く胸を抑えた少年は頭を振ると、抱えていたバッグを持ち直した。
*****
二度と「恋」はしない、そう思わせた苦い記憶は未だに胸の奥、薄れない酷い裏切りとして深く傷を作った。 一度だって忘れた事はない、彼に溺れ何も見えて居なかった愚かな幼い自分。 滝沢悠里(たきざわゆうり)は視界に移ったその人が他人の空似であるかどうかをもう一度確かめる為にそろそろと顔を上げた。あの頃だって自分から見れば確かに大人と呼ばれる人だったけれど、更に成長した彼は更にその魅力に磨きをかけたらしく、人受けの良い柔和な笑顔と整った容姿にさっきから周囲の女性達から熱い視線が送られている。 その視線に動じる事も無く話しだした彼の聞き覚えのある声に悠里は期待を裏切られたことを知る。 永瀬泰隆(ながせやすたか)、今より幼い自分の純情を踏みにじり尚且つ今もなお心の奥に深い傷を残した、その人だった。いつかこの胸の傷が癒えるその時まで会いたくない人だったのに、と俯いた悠里はただ唇を噛み締めた。
「すげー赴任早々ハーレムかよ。いいね、顔の良い男は。」
窓の外を眺め呟いた友人の何気ない一言に窓の外へと視線を向けた悠里はびくり、と身を固まらせた。 幸い気づいた友人は居ないらしく、外を眺めたまま更に好き勝手な事を言い始めた友人達に胸を撫で下ろした悠里は視線を逸らすと手にしていたスナックへと無理に目線を合わせた。
「何か面白いものでも見えているのか?」
「伊藤!あれあれ、ハーレム状態の新任、見た?」
「・・・・・新任?ああ、永瀬先生か。また増えたのか?」
「かなり、な。羨ましいな、顔だろ、取り得は顔!!」
豪語する友人に溜息を吐いた伊藤夏(いとうなつ)は一人、窓から視線を逸らしている悠里へと気づいた。
「ミーハー根性丸出しのバカには付き合わない?」
頭の上からの声に思わず顔を上げた悠里は目の前に立つ、夏に気づいてただ曖昧な笑みを浮かべる。
「伊藤は・・・・・興味なし?」
「俺はそれより先生が可哀想だよ。あのうるさい連中に付き合ってやるなんて、人が好いにも程がある。」
「・・・・・・人が好い?あの人が・・・・・」
呟いた後眉を顰める悠里に夏は驚いた様に目を見開くけれどそれ以上は何も言わなかった。 人と巧く付き合うコツは深入りせず付かず離れずがモットーの夏はただ悠里の次の言葉を待った。
「人が好い、か。本当にそう見えるよね。喧しい女子に朝から晩まで張り付かれて本当、可哀想。」
少しだけ口元に笑みを浮かべると呟いた悠里は目の前の夏に答えを返したわけではなかったけれど夏は「そうだな」と答えてくれる。 少しだけ他の友人とは線を引いている独特の雰囲気を持つ目の前の友人に悠里は笑みを浮かべると、スナック菓子へと手を伸ばした。
ぱさり、と書類を置くとじっと見つめてくる視線から逃れるように俯くと悠里はこくり、と微かに喉を鳴らし唾を飲み込む。 さっきから居心地の悪い場所、突き刺さる視線に黙って立っているけれど背筋を伝い流れる汗に少しだけ眉を顰める。
「こんな場所で再会するなんて思わなかったよ」
どうしてこんな事になったのか、ソレばかりが頭を占めていた悠里は発された声を聞き逃し思わず顔を上げる。
「・・・・・何、か・・・・・おっしゃいましたか?」
思わず上げた視界に映る人へと問いかけた悠里に彼、永瀬泰隆は少しだけ口元へと笑みを浮かべる。 今更後悔しても遅いのを今にも崩れ落ちそうな体を必死に手を握り締め堪えながら、悠里は乾いた息を吐いた。
「少しは成長した?・・・・・色んな意味でまさかまた会えるなんて思わなかったよ。」
口元に笑みを浮かべながらゆっくり、と近づいて来る泰隆を悠里はただ呆然と眺めている。 あんなに会いたくないと思ったはずの人なのに、近づいて来る彼から少しづつ香る柑橘系の香りと混ざる煙草の香り、変わらないその香りに包まれていた日々を思い出しかけた悠里はようやく後ずさろうとするけれど、それより早く泰隆は彼の腕を掴んだ。
「・・・・・あの、何の用、でしょうか?」
他人行儀な敬語、なのに微かに震える語尾に気づいた泰隆はそのまま力任せに悠里を胸の中へと引き寄せる。
「身長は少し伸びたね、髪も・・・・・声もあの頃よりだいぶ低くなった。」
「・・・・・離して下さい。」
「いつまで他人行儀?・・・・・知らない相手じゃないだろ?」
そっと髪へと触れてくる手の感触に唇を噛み締めた悠里はその腕の中から逃げようともがく。 腕を掴む手に力をこめ、そのあがきすら抑えつけた泰隆は悠里へと顔を近づけてくる。
「何を・・・・・」
「反抗されるほど気になるって知ってる?・・・・・悠里にまた会えるなんて、しかも今の俺が何なのか知らないわけじゃないだろ?」
そのまま笑みを浮かべる泰隆に悠里はびくり、と肩を震わせると目の前で穏やかそうな笑みを浮かべている男を見つめる。その瞳に混じる驚愕と畏れを籠める視線に泰隆はもう一度更に笑みを深くすると悠里へと更に顔を近づけた。
*****
あの頃、何一つ知らなかった自分にキスを教えたのは目の前の男だった。 重なり絡み合う視線、何を考えているのかあの頃も今も分からないまま、悠里は唐突に奪われたキスに思考を閉ざす。 最初にされたのはお子様クラスの軽いキス、ただ触れ合うだけのそのキスを何度もされながら、今では舌をさしこまれ口腔内を舌で掻き回され歯列をたどり貪りつくす様なキスへと変わっていた。 濡れた音と同時に唇が離され、目の前に映る赤く濡れた唇に悠里は少しづつ正気を取り戻した顔で、目の前の現実に巧くついていかない頭を必死に振ると未だ捕らえられたままの腕の中から力任せに抜け出す。 そしてやっと目の前に未だに微かに笑みを浮かべる男を睨み付けたまま、これみよがしに服の袖で唇を乱暴に拭う。
「何ですか、いきなり・・・・・何の為に俺を呼んだんですか?」
「触れたくなったから、かな。久々に会った元恋人にその態度はあまりに冷たくないか?」
飄々と答える泰隆に拳を握り締めた悠里はただ彼を睨み付ける。 その悠里の態度に浮かべた笑みを崩す事無く泰隆はおどけたように肩を疎める。
「二度と近づかないで下さい。俺はあんたとはもう何の関係もないから!」
吐き出すように叫んだ悠里はそのままドアへと駆け寄り逃げる様に部屋を去っていく。 一人取り残された泰隆は浮かべていた笑みを苦笑に変え、遠ざかる足音をぼんやりと聞いていた。
廊下を走るな、マニュアルの様な校則を思い出し緩めたけれど、そのまま歩き続ける悠里は重い溜息を零した。 相変わらずの横柄な態度、人を何だと思っているのか相変わらず読めない男、そんな相手にバカみたいに惚れこんでいたかつての自分まで思い出しそうになり慌てて頭を振る。 日常に降って湧いた災厄に自分の行いを省みたくなりながら、悠里は立ち止まると顔を上げる。 二度と流されない、あの頃と同じ轍は踏まない、そう思い込んだ矢先から思い出したのは久々に触れた唇の温もり。 唇に手を無意識に当てたまま、悠里は深く重い溜息を零した。
何も知らなかった自分を粉々に壊した相手との再会が悠里の平穏な日常を変えていく。 そんな最悪の考えが頭に浮かんだ悠里はもう一度大きく頭を振ると真っ直ぐに歩きだした。 夕日が窓から差し込んでくる廊下はオレンジの光で溢れていた。
そんな訳でどんな訳だ?の新連載です。 多分亀並みに進んでいきますので期待はしないで下さい。 最初から期待はされてませんよね。・・・・・ではまた次回。
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