声を聞くだけで鼓動が跳ねる。そんな事は前にもあったな、と思い出し成橋穣(みのる)は眉を顰める。 成橋穣、誰が見ても男の彼は背は170を少し越えた程度の身長なのに、頗る顔が良い。綺麗と言われる女優にも容姿だけは負けていない。だけど、彼はとても性格が悪い事でも評判だ。顔が良い=性格極悪を地で行けると言われるほど、その悪評は学内に留まらず学外にまで響いている。それなのに、顔が良いのは得する以外の何者でも無い程彼はもてる。毎日、毎日、彼の隣りに立ちたいが為に告白する人は途切れない。その中から適当に選び、飽きれば他の人へと移る、それが成橋穣の恋愛スタイルだったのに、ここ数ヶ月例外が起こった。 半年付き合った恋人と別れた後、何度告白されても断り頷かない孤高の人になっているのだ。 成橋穣の元恋人、彼の名を斉藤翼(つばさ)という。至って極平凡な彼の身長は180と少し。容姿も普通、頭脳も普通。上げれば特筆する事など何も無い平凡な男、それが穣の元恋人だった。 別れた当事、様々な憶測が飛んだのだが、ある日、穣が「自分から別れを告げた。・・・・・理由? 飽きたから、かな?」突然の沈黙を破り告げた所から、翼は可哀想な人になった。 相変わらずの穣の横柄な態度に一気に翼への同情票は増えた。学内のアイドル、彩菜との交際を突き止められ、恋人としてすでに公認されていた穣を彩菜と交際する為に酷く振ったのだと噂された翼の名誉は回復されたのだ。だけど、学内のアイドル彩菜との恋物語については取り扱われなかった。アイドル彩菜は女性だ。女性のアイドルを崇拝している信者は悲しいかな、アイドルより綺麗な穣ほどにはいなかった。男の癖に女性より綺麗な穣の横に再び並ぶ男への関心の方が学内では高かったのだ。否定はしたけれど、その後も穣は告白に頷く事は無かった。大っぴらな理由として上げられたのはただ一つ。「もうすぐ就活だから。」大学三年の穣にしては当たり前のそして至極当然な断り文句だった。
「遊ばないよ、言っただろ。 そういうの面倒だって・・・・・」
うんざりした声で告げる穣に学内で唯一の親友、麻績隼(おみはやと)は残念そうな顔をして、下がる眼鏡を押しあげる。
「いい加減、誰とも付き合わないのはお前らしくないだろ? たまには食指を変えてみないか?」
「だから、遊ばないって。男はもちろん女も俺はいらない。 何度も言ってるだろ?」
「・・・・・お前がいるとナンパ率も上がるのに、俺は女が欲しいんだよ。」
「勝手に作れ。 俺は帰る、じゃあな。」
「あっ・・・・・おい、穣!!」
溜息と共に穣は立ち上がると情けない顔で見上げる自称親友隼に手を振るとさっさと歩き出す。 ナンパどころか恋もしたくないのに、最近その手の勧誘が隼だけじゃないので、穣は歩き出しながら大きな溜息を吐く。 当分誰かに心惹かれるなんて思いはしたくない。連日の様に続く告白にもうんざりしているけれど、誰かと付き合うなんて無理だと穣には分かっていた。 誰にも言わないし、気づかれたくないけれど、穣にはちゃんと好きな人がいる。好き過ぎて上手くいかない恋だったけれど、それでもまだ思い出すだけで胸の奥が熱くなる程好きな相手がいるのだ。 穣は恋に疼く胸をそっと抑えると何事も無かったかのようにまた歩き出した。 「これが良いんじゃないかな?」
「・・・・・そう? なら、これにするよ。」
突然聞こえてきた声に穣は足を止めると辺りをそっと見回す。目の端に映ったCD屋の前で仲良くカップルが会話をしていた。カップルの片割れを視界に捕らえた穣は思わず気づかれない様にCD屋の隣りの雑貨店の端へと隠れる様に身を潜める。
「そうだ、これ聞いた? 良い曲入ってるんだよ?」
「良い曲、どんなの?」
「ほら、この間見た映画のサントラとか作ってる人だから、外れは無いよ。」
「・・・・・良いね。あれも良い曲だったよね。」
聞いてるこちらには全く分からない会話はぽんぽんと展開される。映画を一緒に見に行く所で本人達が友達だといえばそれまでだけれど、会話だけ聞けば恋人同士のそれだ。穣は唇を噛み締めると気づかれないうちに早く二人が立ち去るのを必死に祈っていた。仲の良いカップルの片割れは穣の元恋人、そして未だに未練たっぷりの穣の思い人、斉藤翼、その人で隣りにいた彼女は学内、外問わずのアイドル彩菜だった。声を聞いただけで疼く胸を抑え蹲った穣は小さな小さな溜息を吐いた。
*****
付き合っているのだと本人達は決して言ってはいない。だけど二人寄り添い会話する姿は仲睦まじく、否定も肯定もしない二人の仲を誰もが暗黙の了解で認めていた。可愛い女の子、それだけで彩菜は翼の隣りに立てる。きっと外見と同じく中身も自分とは全く違うのだと思う。二人、会話をしている姿はとても微笑ましかったし、きっと気を使う事のない相手なのだと一目見ただけでもその雰囲気は穣にもすぐに伝わった。いつだって気をつかい遠慮がちに話しかけてきた翼に穣は横柄な態度しか取らなかった。そうして思いを伝える事もできずに変な所で小心者の穣は恋に溺れる自分が怖くて別れをさっさと切り出した。戸惑う翼に何一つ言葉をかけなかった穣は彼の中では付き合った事さえ汚点になっているかもしれない。今は穏やかで幸せな恋愛をしているのならそれだけで穣は少しだけ楽になれる。辛い思いしか与える事の出来なかった自分の罪が許されるとは思わないけれど、あの時のアレが彼の中では思い出したくない、触れられたくもない過去になっていたとしても今が幸せならそれで良いと思えるから。自分だけの中で抱えている思いに気づかれる事の二度とこないこんな生活を穣は望んでいたのだから。
「好きです、俺と付き合って下さい!」
平穏で代わり映えのしない毎日は決してこんな日々じゃないと目の前で顔を赤くする人をぼんやりと眺めながら穣は気づかれない様に溜息を零す。
「俺は当分誰とも付き合う気はないから、諦めて。 じゃあね。」
最早定番となった言葉を紡ぐと、用は終わったと背を向ける穣に彼は慌てて俯いていた顔を上げる。
「待って下さい! 今、恋人はいないんですよね、だったら・・・・・」
「・・・・・それでも、俺は誰とも付き合わないよ! 誰かと付き合いたいなら、他を当たれよ。」
「別れた人の事、まだ好きだからですか?」
「は? 何言って・・・・・」
「俺、見ました。成橋さんがCD屋にいた二人を覗き見てたの。 本当は成橋さん、まだ別れたあの人に未練があるから誰とも付き合わないんじゃないですか?」
「・・・・・そんな事はありえない。 たまたま偶然だよ、別れた奴には誰だって会いたくない、だろ?」
笑みを浮かべ告げながら、穣はあの日の自分を思い出す。表に出すへまをどこかでしていないか、目の前の男がどこからどこまでを見ていたのかをめまぐるしく考える。
「未練が無いのなら、俺と付き合って下さい。 じゃないと、俺 あの日の成橋さんの事言いふらしますよ。」
最後通告の様に告げる脅しの様な一言に穣は笑う自分の顔が引き攣るのを感じた。深く大きく息を吸い込むと、どうするんですか?と問いかける顔のまま窺う様に自分を見つめる男に口を開いた。
「俺は未練なんて一つも無いし、やましい事なんてどこにも無い。 君は脅して俺の恋人になってそれで満足?」
開き直る、それが穣の決断で、内心の動揺を必死に押し隠し淡々と告げるその声に男は唸るような呻きを漏らすとそのまま走り去っていく。ほっと安堵の息を漏らし、穣は立ち尽くしたまま瞳を深く閉じる。 今すぐにでも座り込みたい衝動を必死に隠し、穣は鞄を置いたままでいる講義で最後に使った教室へと歩き出した。
*****
「毎日、あんたも大変だね。」
背後から突然掛けられた声に穣は落としそうになった鞄を必死に抱える。そんな彼に気づかないのか廊下を歩くかつん、かつんという靴音がすぐ傍まで近づいて来る。
「・・・・・何の事? 俺はまた君の迷惑になる事でもしましたか?」
淡々と響く声に微かに舌打ちする音が聞こえるけれど、振り向いた穣の後ろにいたのは斉藤翼だった。別れてから、正確にいうなら穣から別れを告げた事を公表しろ、と彼の自宅に押しかけてきたその日からまともに翼を見るのも、彼が話しかけてきたのも久しぶりだった。通りすがりにたまたま穣を見つけたから、声を掛けてきたのだと分かっていても内心有りもしない期待に鼓動が跳ね上がるのを穣は必死に抑えこむと辺りさわりの無い笑みを浮かべる。
「告白の現場を見たから、話の内容も少し聞こえた。」
「・・・・・偶然、見かけただけで、顔を合わせるのもどうかと、思うだろ?」
変わらない笑みを浮かべ告げながら、穣は抱えていた鞄を掴む手に力をこめる。
「だね。 あんたが俺に未練があるなんて事無いのは俺が一番良く分かってる。 それとも、俺にすぐ次の相手が出来たから未練でも持ったとか?」
本人の口から聞くのは多分穣が初めてなのだろう、付き合いを否定しない翼の言葉に、それでも穣は笑みを浮かべたまま頭を軽く振る。
「まさか。 君の幸せを妬む気持ちなんて無いよ。付き合いが順調ならそれで良いじゃないか。」
更に笑みを深くすると否定する穣の声に翼は皮肉そうな笑みを向ける。
「あんたとの付き合いでは得られなかった気持ちや思いが俺達には溢れてるから、どこかで会っても見ないフリをしてくれよ。声をかけられるのも確かに不愉快だから、言いたい事はそれだけ、じゃあね、成橋。」
そうして、背を向けると翼はさっさと足早に教室を出て行く。一人残された穣は鞄を抱えた手をそのまま黙って立ち尽くしていた。こんな所でみっともない自分は出せない、それだけが穣を支えていた。だから、彼は鞄を手に持ちなおすと、ゆっくりと足を踏み出した。蹲りそうな体を必死に堪え、泣きそうな自分の心をぐっと抑えこむ。 歩き出した穣は耳の奥に響く痛い言葉をゆっくり、と頭の中で反芻する。未だ嘗て、こんなに穣の心を掻き乱した相手はいない、同時に終わったはずの恋愛に未練たらたらの自分に唇を微かに歪めると大きく頭を振る。学部も違うし、会おうと思わなければ会えない相手だと分かっている。だから平気だと手に握る鞄に力をこめた穣は不意に腕を捕まれバランスを崩し、引きづられ空き教室へと連れ込まれる。
投げ込まれ、無様に転ぶ穣は日の刺さない薄暗い教室に自分を連れ込んだ相手の顔を見ようとして顔をのろのろと上げる。 それよりも早く間近に迫る顔に驚きで瞳を見開く穣に相手は有無を言わせず唇を押し付けてくる。奪われる唇はすぐに口腔まで舌で犯され、一瞬遅れて拒む穣の抵抗は遅すぎた。乱暴に服を剥ぎ取られ、素肌を直に手で触られる。その間もずっと塞がれる唇の端からは溢れだす唾液がぼたぼたと顔を伝わり床へと落ちていく。何の準備もされていない場所に鋭く鋭利な刃物を突きつけられたそんな激痛に呻く声すらも塞がれ、穣はわけも分からないまま男に犯され揺らされる体から逃げる様に意識を飛ばした。 気がついた時は薄暗い部屋の中、一人きり、床に転がされていた。のろのろと起き上がるだけで体の節々が痛み呻く穣は後始末もされていない汚れたままの下肢を見て溢れだす涙を止められなかった。 突然の意味の分からない暴挙に出た翼の真意が穣には分からなかった。自分がそこまで嫌われている事実をはっきりと刻みつけられ、痛む体を引きづりながら穣は歩き出した。ぼろきれの様な使い物にならないシャツを見る度に自分は今日の事を思い出すだろう。そして、翼には今後絶対に会わないようにするべきだと深く胸に刻み込んだ。
ラブに遠いのは仕方ない、とはいえ酷いのはどっちなんでしょうか? 『絡む指』の直接の続きがこちらの話になるのでフルネームも公開してみました。 20090527
odai top novel top
|