触れたい、と思ったらもうダメだった。 何をしても手につかない、こんな自分がいるなんて思いもしなかった。 咲宮春陽は大学在学中に文壇デビューした小説家だ。 本を読むのが好きで、ありとあらゆるジャンルの本を読み耽り、気づいたら小説家と呼ばれる人になっていた。 自由業と言われる職業だけど、極めて稀な生活はしていない。毎日同じ時間に起きて、同じ時間に寝る。そこら辺は周りと何ら変わりは無いけれど、唯一小説家である自分に特筆すべき事があるとしたら、自宅にいながら仕事が出来る事。朝だろうが、夜だろうが、締め切りに間に合いさいすれば、煩い事は言われないし、スーツを着て、身支度を整えてなんて事もしなくて良い。おかげで、賞を取った時以外、スーツなんてここ何年も袖を通していない。 出版者主催のパーティなんてものが毎年行われているのは知っているけれど、あれは強制じゃないし、参加したのも最初の年だけだった気がする。 そんな春陽には同い年の恋人がいる。お互い、元々は友人だった。 趣味も話しもほとんど合わないのに、何故か仲良くなった友人は春陽の中にどっしり、と根を張り、いつの間にか恋人に昇格していた。 元友人の恋人は毎日身支度を整え、同じ時間に出社し、雀の涙の残業代で深夜まで酷使されるサラリーマンと呼ばれる職種の会社員だ。会社の都合で転勤が決まり、逆らう事なんてできない。 半年前、恋人はそう言うと、言われるままに遠い町へと引越した。 遠距離恋愛の始まりだった。
連絡は基本、春陽からだった。恋人は仕事に追われているのか、ほとんど電話に出る事なく、携帯やパソコンのメールだけが二人を繋ぐ絆だった。 無理してでも会いに来い、とも会いたいとも言えないのは、たまに電話に出てくれる恋人の声が疲れていたせいもある。我が儘言って、関係がこじれたら元に戻るのにどれだけの時間を要するのかも分からなかった。 我慢はした。仕事をしている間は記憶の隅に追いやり、メールの返事すらまともに返らないのは、慣れない土地で仕事しているからだと何度も言い聞かせた。募る不安を一つずつ無理矢理な理由を詰め込み、春陽なりに考えてもみた。 だけど、いい加減我慢も限界だった。 遠距離だからこそ、意思の疎通が巧くできない。ずるずるそれが続き、次第にお互いの関係が距離と同じ位離れるなんて、春陽には真っ平ごめんだった。 好きだけど、遠距離だから、仕方無い、なんて理由で別れる恋人達をバカじゃねーか、と実は思っているし、自分は違う、そう信じてる。距離に負けない関係を築けるはずだと、だから別れたいとも思わなかったし、今だって、近い距離にいた時と同じ位、いや、実は欲求不満のせいか、それ以上に恋焦がれて仕方無い。 エラー音が鳴り響くパソコンの画面を暫く見つめていた春陽は隣りに置いてある携帯へと目を向ける。メールを送っても電話をしても、最近反応の鈍い恋人。
「絶対、ありえないから!」
眉を顰め、低い声で呟いた春陽は携帯へと手を伸ばし、恋人の次に何度も掛けた事のある番号を呼び出すと携帯を耳に当てる。呼び出し音が鳴り響くのを聞きながら春陽は愛しい恋人の顔を思い浮かべる為に瞳を閉じる。
*****
「何でここに?」
「失礼な男だな。何でってもうすぐクリスマスだろ? 仕事のしすぎでそんな事も忘れたのかよ?」
「クリスマスだから、って・・・・・・春陽?」
「そうだって、しつこいぞ、凪! 早く入れろよ、立ち話なんて有り得ないだろ、ここ寒すぎ!!」
クリスマスだから会いに来たわけじゃないけれど、少し痩せた気がする恋人の驚いたままの呆然とした呟きに春陽は今すぐ抱きしめたくてしょうがない衝動と戦いながらつっけんどんな物言いになる自分に少しだけ眉を顰める。
「「何してんだよ、温かい飲み物くれるとか、飯作るとかする事あんだろ?」
「えっと・・・・・ああ、うん。」
一度も来た事の無い部屋の鍵をのろのろ開ける恋人を急かし中へと押し入りながら、春陽は素早く部屋の中を見渡す。恋人の匂いしかしない、物が少ないのは仕事に追われているせいなのか分からないけれど、前の部屋より広めなのに、妙に殺風景な部屋に内心笑みを浮かべるけれど、春陽は表面を無表情で装った。
「春陽、いつまでこっちに居られる? 仕事とか平気なのか?」
台所へと追いやった恋人がそろそろと近づき問いかけるその声に春陽は意地悪そうな笑みを浮かべたまま恋人を見上げる。
「やっと聞いてくれた。 まとまった休みが取れそうだから、会いに来たのに、仕事、そんなに忙しいのか?」
「まとまった休みって、またスランプとか?」
「失礼だな。 違うよ、原稿はちゃんと締め切りに間に合わせたから、次の締め切りまでかなり時間ができたって事だよ。俺はそんなに締め切り破ったりしねーぞ」
「凪?」
「・・・・・来てくれて嬉しい。 まさか、会いに来てくれるなんて、想像もしてなかった・・・・・」
わざと拗ねて見せる春陽に恋人は泣きそうに顔を歪ませるから、もう我慢なんてできなくて思わず抱きしめた。嗅ぎ慣れた懐かしい恋人の香りを吸い込む春陽の耳に囁くその声に無言のまま抱きしめる腕に力をこめる。 縋りつくように抱きついてくる体をもっと深く抱き寄せた春陽は頭を擦りつけてくる恋人へと実に半年振りのキスを送る。 そこからは怒涛だった。 何度も言うけれど欲求不満だったのだ。 春陽がそうな様に恋人だってそうだったのだろう。半年振りに繋いだ体、互いの温もりを分け合う行為は遠距離前のどの行為よりも熱が篭り、そして激しかった。一度では終わらず、ソファーからベッド、風呂場からベッドと何度か場所を移動して、その間も二人、ぴったり寄り添い、熱を分け合った。
ベッドの上、仕事の疲労が溜まっているのに、更に疲れる事をしたせいなのか、かなりぐったりしている恋人を抱き寄せ、体をゆっくり撫でながら春陽は緩やかなキスを何度か繰り返す。
「・・・・・もぅ、無理・・・・・だよ・・・・・」
「分かってるよ。 オレも今日はもう無理だよ。」
擦れた恋人の呟きに笑みを零し告げる春陽に苦笑を返した恋人はもう眠いのか目が半分閉じかかってる。 クリスマスプレゼントを忘れた事を話した時には既にほとんど眠りかかっていたから、春陽は腕の中に恋人を更に深く抱き寄せると「おやすみ」と甘く囁く。その声に頷いてはくれたけれど、すぐにすーすー、と聞こえてくる寝息に春陽は恋人を抱き寄せたまま笑みを浮かべる。 本当に疲れていたのか、それから朝までぐっすり眠った恋人は次の日、まるで新婚さんの様な甘い雰囲気を醸し出す部屋から名残惜しそうに仕事に出かけていった。もちろん見送る春陽とキスを交わしあったのは言うまでも無い。 まだ充分に物が揃っていない恋人の部屋に一人取り残された春陽は持参してきたパソコンを取り出すとぼんやりとネットを渡り歩きながら、あの日、掛けた電話の相手との会話を思い出す。
『引越しって、誰がですか?』
「あのなーオレに決まってるだろ? 遠方に行っても仕事に支障は無い、よな?」
『それは・・・・・まぁ遠くても近くても、基本支障は無いですけど・・・・・引越し考えてるんですか?』
「仕事に詰まったらこっちに出てくるかもしれないけど・・・・・基本別の所に住みたいんだよね。 平気?」
『引越したいなら、無理には止めませんけど・・・・・原稿落とさなきゃどこに居ても構いませんし・・・・・』
曖昧な返答を春陽は好意的に解釈すると、「引越し先決まったらまた連絡するから」と強引に話を押し進めると相手の返事も聞かずに携帯を切る。 離れても心は大丈夫だと確信は出来る。だけど、心だけじゃダメだと離れて初めて春陽は気づいた。 いつでもすぐ触れ合える距離にいた頃が懐かしい。自分がこんなに我慢の出来ない人間だと思わなかった。 会社に縛られている恋人同士じゃなくて良かった、と思いながら春陽は携帯を放り投げるとパソコンへと向かうと恋人の住む地域の賃貸情報をネットで探し始める。
*****
正月を過ぎても、まだのらりくらり、と追及を交わしながら部屋に居続ける春陽にやっと恋人が疑問を感じたのは遅れる事、二週間後、クリスマスの日から実に半月後の休日だった。
「・・・・・春陽、まさか仕事干されたのか?」
「失礼だな、そんな事無いよ。 オレは凪と違ってどこに居ても仕事は出来るんだよ。 だから、引越しを考えてる。」
「・・・・・・は?」
のんびり、コーヒー片手にテレビを見ていた春陽に心配そうな顔で問いかけてきた恋人はその言葉に目を見開く。
「引越しって、どこに? 春陽の住んでる場所、賃貸じゃないだろ?」
「・・・・・ああ、生前分与の遺産で買ったマンションだよ。 だけど、あそこに住んでたら、会えないだろ?」
「誰と?」
「・・・・・誰って、オレが会いたいヤツなんて一人しかいないだろ? それとも、何、別の相手に会って欲しいのか?」
間抜けな質問を繰り返す恋人に溜息を吐いた春陽が恋人へと微かに意地悪な笑みを浮かべ逆に問いかけると、ぶんぶん、と無言で大きく頭を振った恋人は春陽をじっと見つめる。
「・・・・・オレの為?」
「半分は、そうかも。 でも半分はオレの為だよ。」
「春陽?」
名前を呼び首を傾げる恋人を無言で抱き寄せた春陽はそのまま腕の中へと収まった恋人をきつく抱きしめると顔を胸元へと摺り寄せる恋人の耳元へと唇を寄せる。
「一度しか言わないから、今後、10年は言う気無いから・・・・・」
「・・・・・10年って、春陽?」
春陽の声に笑みを浮かべる恋人を更にきつく抱きしめた春陽は大きく息を吸い込む。
「毎日凪に会いたい、毎日凪に触れたい。」
「・・・・・・っ、はる・・・・・」
びくり、と腕の中、顔を上げようとする頭を手繰り寄せ春陽は恋人の言葉を封じると更に言葉を繋げる。
「離れても大丈夫だって思ってた。 でも、全然ダメで、凪に触れたくて、顔が見たくて、声が聞きたくて仕方なかった。 凪が居ないと、オレがダメなんだ」
ぎゅっ、と腕の中に抱え込み告げる春陽の耳にぐすっ、と鼻を啜る音がして、思わず腕の中を覗き込んだ春陽は驚きからすぐに笑を顔に浮かべるとまた恋人をきつく抱きしめ直す。
「・・・・・だから、凪の居る場所にオレはいたい。 愛してるよ、凪・・・・・」
ううっ、と呻く声の後、腕の中ぼろぼろ、と涙や色々なものを零しながらもこくこく、と頷く恋人に春陽は笑みを浮かべたままそっと頬へとキスを送る。濡れてしょっぱい頬に何度も送った後はお決まりの唇にもっと深いキスを送った春陽はなかなか泣き止まない恋人の背を撫でながら、何度も顔中にキスを降らせた。
引越し先は二人で決めた。すぐに転勤するかもしれない職場にいるから、と、恋人はそんなに広い部屋はいらないと言う。二人で暮らすにはそこそこの部屋を決めた日曜日、自分達だけで引越しできるほど少ない荷物を抱え、新しい部屋に二人で入り顔を見合わせると、立ったまま互いを抱きしめキスを交わした。カーテンのついていない窓から門出を祝うようにまんまるなお月様だけが眺めていた。
- end -
18禁までいけなかったのですが、これはこれで満足してます。 攻め視点を書こうと思いつつ時間がかかりました; 楽しんでいただけたら嬉しいです。 20100124
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